アメリカによる建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 11:55 UTC 版)
パナマ運河会社の倒産によって、フランス共和国は運河建設から事実上手を引くこととなり、運河建設はアメリカ合衆国によって進められることとなった。太平洋と大西洋にまたがる国土を持つアメリカにとって、両洋間を結ぶ運河は経済的にも軍事的にも必須のものであると考えられた。 しかし、運河のルートは「パナマルート」と「ニカラグアルート」の二つの案があり、議会がまとまるまでには長い時間がかかった。ニカラグアルートはニカラグア湖を使うことで、掘削量を大幅に減らす利点があったからである。しかし1902年2月に、遠く離れたカリブ海のマルチニーク島のプレー山の大爆発(4万人死亡)が起こったことが大きく宣伝されたことから、ニカラグア湖内と周辺にも火山が数個あるニカラグアルートの不安が増大し、同年、アメリカ合衆国議会でパナマ地峡に運河を建設することを決定した。 パナマ地峡は当初は自治権を持つコロンビア領であったが、パナマ運河の地政学的重要性に注目したアメリカ合衆国は、運河を自らの管轄下に置くことを強く志向した。1903年1月22日、ヘイ・エルラン条約(スペイン語版、英語版)(英語: Hay–Herrán Treaty、スペイン語: Tratado Herrán-Hay)が、アメリカのジョン・ヘイ国務長官とコロンビアのTomás Herrán臨時代理大使との間で結ばれる。 しかし、コロンビア議会はこれを批准しなかった。こうしたことから、アメリカ合衆国連邦政府は、パナマ市にいた独立派の運動家と手を結び、1903年11月3日、この地域はコロンビアから独立を宣言して「パナマ共和国」となり、時のアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの政権は、10日後の11月13日に国家の承認をし、5日後の11月18日にはパナマ運河条約を結び、運河の建設権と関連地区の永久租借権などを取得し、建設工事に着手した。 1903年からパナマ資本で工事を始めたが、当初の数年間は疫病の流行などにより工事は遅々として進んでおらず、海面式運河にするか閘門式運河にするかの建設計画さえ決定していない状態だった。その状況を打開するため、1904年5月にアメリカ資本による建設事業がスタートした。合衆国中を資本が駆け巡り、同年から翌年にかけて全米手形交換所の総交換額は1.5倍に急増した。 1905年に着任した主任技師ジョン・フランク・スティーブンスが人夫へのマラリアや黄熱病の感染を防ぐためゴーガス医師と蚊の駆除に尽力し、その結果、疫病はほぼ根絶された。また、スティーブンスは福利厚生にも気を配り、労働者たちの労働環境は非常に整ったものとなった。そしてスティーブンスは現地の地勢を調査した結果、閘門式運河が新運河には最適であるとの結論を下し、議会はその判断に従って閘門式運河案を決定した。 1907年、精神的疲労によりスティーブンスは主任技師を退職し、後任にはジョージ・ワシントン・ゲーサルスが就任した。ゲーサルスは労働者の不満を吸い上げる自由面接制度を整え、工事週報の発刊によって工事の現況を労働者たちにも可視化し、そして工事を地域別にすることで、各地域の競争意識を煽った。このため、工事のテンポはこれ以降格段に早くなった。1910年にはガトゥンダムが完成し、1913年にはダムが満水となってガトゥン湖が誕生した。一番の難工事であったクレブラ・カットの開削も完了し、パナマ運河は予定より2年早く1914年8月15日に開通した。 結局、この工事には3億ドル以上の資金が投入された。運河収入はパナマに帰属するが、運河地帯の施政権と運河の管理権は、アメリカ合衆国に帰属した。なお、ルーズベルト大統領は完成直前に死去した。 建設には、日本人の青山士(あおやま あきら)も従事。彼は帰国後、内務省の技官になり、信濃川大河津分水路補修工事や荒川放水路建設工事に携わった。 建設後も、特にクレブラ・カット区間で土砂崩れが続発し、一度は運河が完全にこの区間で埋まってしまったこともあった。さらに運河の幅自体も、この区間は難工事であったために狭く、そのため1927年よりこの区間の拡張並びに護岸工事が行われ、1940年頃に完成した。
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