スレッドニードル通り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 04:12 UTC 版)
「ロンドン証券取引所」の記事における「スレッドニードル通り」の解説
1748年にジョナサンが火事で焼け落ち、加えてアレイ界隈のあふれかえる人の多さに不満がつのっていたこともあって、ブローカーらはスレッドニードル通りにニュー・ジョナサンを再建、まもなく名称を証券取引所と定めた。1801年には会員規則の新設、証券取引会員場への再度改名をもって今日あるロンドン証券取引所の基礎ができあがる。しかし、これもまた手狭であったため同年にカペルコートへ移転するなど紆余曲折を経ながらも、市場そのものが朽ちることはなく1820年代の鉄道・運河・鉱山・保険に関わる産業の成長が支えとなって再び立ち直っていった。 1865年から1914年の間、イギリスの資本輸出におき大英帝国向けは4割で16.1億ポンドに達した。その半分はカナダ・オーストラリア向けであった。資本輸出は帝国主義の手段ではなく、むしろ収益性に帝国主義を従属せしめるものであった。 1923年には紋章が授与された。モットーは「我が言葉は我が証文なり」(ラテン語: dictum meum pactum、英語: my word is my bond)。このモットーが表しているとおり、「ロンドン株式取引所の最大の長所は、非のうちどころのない誠実さ」といわれた。 1972年、エリザベス2世出席のもと立会場をそなえた証券取引所タワーをスレッドニードル通りに開き、新たな舞台を設けた。1986年10月27日のビッグバン到来においては大規模な変革がもたらされ、有価証券取引の手数料自由化によってブローカーやディーラー同様に各業者ごとで決定できる仕組み、ディーリングルームへのコンピュータシステム導入など、業務にかかわる多くの規制撤廃・緩和がなされた。
※この「スレッドニードル通り」の解説は、「ロンドン証券取引所」の解説の一部です。
「スレッドニードル通り」を含む「ロンドン証券取引所」の記事については、「ロンドン証券取引所」の概要を参照ください。
- スレッドニードル通りのページへのリンク