パーニーパットにおける対峙に至るまで・諸勢力の動向
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1759年10月、アフマド・シャー・ドゥッラーニーはラホールのマラーター勢力を駆逐し、再びデリーへと進軍した。 1760年1月、アフマド・シャー・ドゥッラーニーはダッタージー・ラーオ・シンディアをデリー近郊で破り、そのままデリーへと入城した(バラリガートの戦い)。その後、彼は北インドにとどまり、ローヒラー族のナジーブ・ハーン、アワド太守のシュジャー・ウッダウラを自軍に取り込んだ。 3月、王国の宰相バーラージー・バージー・ラーオは従兄弟サダーシヴ・ラーオ・バーウ、長子ヴィシュヴァース・ラーオ、弟クリシュナ・ラーオを指揮官にデリーへと軍勢を派遣した。この軍勢にはジャンコージー・ラーオ・シンディア、マルハール・ラーオ・ホールカル、ダマージー・ラーオ・ガーイクワードの軍勢も加わり、マラーター軍は大軍となっていた。アフマド・シャーはこれを聞き、デリーからアリーガルへと移動した。 8月2日、サダーシヴ・ラーオはデリーに入城した。デリーを占領した際、マラーター軍はデリーの神殿などを略奪したため、バラトプル王スーラジュ・マルはこれ以降マラーター側での参陣を拒否したのだという。また、スーラジュ・マルはゲリラ戦 に持ち込むよう提言したのに対し、サダーシヴ・ラーオが真正面の戦いにこだわってそれを否定したことも原因であった。 その後、マラーター軍はデリーを離れ、アリーガルにいたアフマド・シャー・ドゥッラーニーも進軍を開始した。こうして、11月にマラーター軍とアフガン軍の両軍はパーニーパットの平野で対峙するに至った。とはいえ、マラーター軍とアフガン軍は全面衝突を避けようとしており、両陣営それぞれが何度も使者を送って和平交渉を行ったが、結果として実を結ぶことはなかった。
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