ダマージー・ラーオ・ガーイクワードとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ダマージー・ラーオ・ガーイクワードの意味・解説 

ダマージー・ラーオ・ガーイクワード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/07/16 09:33 UTC 版)

ダマージー・ラーオ・ガーイクワード
Damaji Rao Gaekwad
ガーイクワード家当主
ダマージー・ラーオ・ガーイクワード
在位 1732年 - 1768年
別号 サルダール
マハーラージャ
出生 不詳
死去 1768年8月18日
パータン
子女 サヤージー・ラーオ・ガーイクワード
ファテー・シング・ラーオ・ガーイクワード
ゴーヴィンド・ラーオ・ガーイクワード
マナージー・ラーオ・ガーイクワード
王家 ガーイクワード家
宗教 ヒンドゥー教
テンプレートを表示

ダマージー・ラーオ・ガーイクワード(Damaji Rao Gaekwad, 生年不詳 - 1768年8月18日)は、西インドグジャラート地方ガーイクワード家の当主(在位:1732年 - 1768年)。

生涯

ピラージー・ラーオ・ガーイクワードは領土拡大を目指していたが、1732年5月ムガル帝国の武将アバイ・シングとの戦いで死亡してしまった[1]

後を継いだピラージー・ラーオの息子ダマージー・ラーオは、1734年ヴァドーダラーのムガル帝国軍を追い払い、この地を自身の拠点とした[2]

その後、ダマージー・ラーオはムガル帝国の軍勢と戦い続けて領土を広げ、1757年にはマラーター王国宰相バーラージー・バージー・ラーオとともに帝国の州都アフマダーバードを陥落させた[3]。これにより、マラーターによるグジャラート征服は完了し、この地方はガーイクワード家と王国で二分された[4]

その頃、アフガニスタンドゥッラーニー朝の勢力が帝国領にたびたび侵入し、ダマージー・ラーオも他のマラーター勢力とともにこれに対抗した[5]。だが、1761年1月14日、マラーター同盟軍はパーニーパトの地で大敗北を喫し、戦いに参加していたダマージー・ラーオは辛くも逃げ延びた(第三次パーニーパトの戦い[6]

1768年8月18日、ダマージー・ラーオは死亡し、息子のサヤージー・ラーオ・ガーイクワードが当主位を継承した[7]

脚注

  1. ^ Baroda 3
  2. ^ Baroda 4
  3. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.217
  4. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.217
  5. ^ Baroda 4
  6. ^ Baroda 4
  7. ^ Baroda 4

参考文献

  • 小谷汪之 『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』 山川出版社、2007年 

関連項目

Template:ガーイクワード家の当主




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ダマージー・ラーオ・ガーイクワード」の関連用語

ダマージー・ラーオ・ガーイクワードのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ダマージー・ラーオ・ガーイクワードのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのダマージー・ラーオ・ガーイクワード (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS