ヴァドーダラー遷都と第三次パーニーパトの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/15 14:27 UTC 版)
「ガーイクワード家」の記事における「ヴァドーダラー遷都と第三次パーニーパトの戦い」の解説
ピラージー・ラーオは領土拡大を目指していたが、1732年5月にムガル帝国の武将アバイ・シングとの戦いで死亡してしまった。 後を継いだピラージー・ラーオの息子ダマージー・ラーオ・ガーイクワードは、1734年にヴァドーダラーのムガル帝国軍を追い払い、この地を自身の拠点とした。 その後、ダマージー・ラーオはムガル帝国の軍勢と戦い続けて領土を広げ、1757年にはマラーター王国宰相バーラージー・バージー・ラーオとともに帝国の州都アフマダーバードを陥落させた。これにより、マラーターによるグジャラート征服は完了し、この地方はガーイクワード家と王国で二分された。 その頃、アフガニスタンのドゥッラーニー朝の勢力が帝国領にたびたび侵入し、ダマージー・ラーオも他のマラーター勢力とともにこれに対抗した。だが、1761年1月14日、マラーター同盟軍はパーニーパトの地で大敗北を喫し、戦いに参加していたダマージー・ラーオは辛くも逃げ延びた。
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