第三次パーニーパトの戦いと当主位継承とは? わかりやすく解説

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第三次パーニーパトの戦いと当主位継承

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/26 10:04 UTC 版)

マハーダージー・シンディア」の記事における「第三次パーニーパトの戦いと当主位継承」の解説

1750年代になると、シンディア家ホールカル両家は、ムガル帝国皇位継承にまで左右するようになった当時アフガニスタンドゥッラーニー朝南方からムガル帝国領土頻繁に侵入し1757年1月にはデリー一時占領するなど、北進するマラーター同盟脅威となっていた。 これに対しマラーター王国宰相バーラージー・バージー・ラーオ長子ヴィシュヴァース・ラーオ従兄弟サダーシヴ・ラーオ・バーウデリー送った。この軍勢シンディア家当主ジャンコージー・ラーオ・シンディアホールカル家当主マルハール・ラーオ・ホールカルなどの軍勢加わりマラーター同盟軍は大軍となった。 そして、1761年1月14日マラーター同盟軍とアフガン軍が激突し大敗して数万人の犠牲者出した第三次パーニーパトの戦い)。マハーダージーは戦い参加していたが、1月7日戦いで重傷負い戦場から逃げていたため無事で済んだとはいえ、兄のトゥコージー・ラーオは同日戦闘死亡している)。 また、1月14日戦闘ではシンディア家当主ジャンコージー・ラーオも殺害されている。これにより、シンディア家当主位は三年間空位が続いたが、プネー宰相府からは事実上独立し、その統制から外れて行動するようになったこの間1765年にマハーダージーは当時グワーリヤル支配していたゴーハドのラージャからグワーリヤル奪い、その支配権押収して自らの領土とした。 そして、1768年1月18日、マハーダージーは正式に当主位を継承しここから彼の北インドへの進撃が始まるところとなる。

※この「第三次パーニーパトの戦いと当主位継承」の解説は、「マハーダージー・シンディア」の解説の一部です。
「第三次パーニーパトの戦いと当主位継承」を含む「マハーダージー・シンディア」の記事については、「マハーダージー・シンディア」の概要を参照ください。

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