第三次パーニーパトの戦いと当主位継承
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「マハーダージー・シンディア」の記事における「第三次パーニーパトの戦いと当主位継承」の解説
1750年代になると、シンディア家、ホールカル両家は、ムガル帝国の皇位継承にまで左右するようになった。当時、アフガニスタンのドゥッラーニー朝に南方からムガル帝国の領土へ頻繁に侵入し、1757年1月にはデリーを一時占領するなど、北進するマラーター同盟の脅威となっていた。 これに対し、マラーター王国宰相バーラージー・バージー・ラーオは長子ヴィシュヴァース・ラーオと従兄弟サダーシヴ・ラーオ・バーウをデリーに送った。この軍勢にシンディア家の当主ジャンコージー・ラーオ・シンディアとホールカル家の当主マルハール・ラーオ・ホールカルなどの軍勢も加わり、マラーター同盟軍は大軍となった。 そして、1761年1月14日にマラーター同盟軍とアフガン軍が激突し、大敗して数万人の犠牲者を出した(第三次パーニーパトの戦い)。マハーダージーは戦いに参加していたが、1月7日の戦いで重傷を負い、戦場から逃げていたため無事で済んだ(とはいえ、兄のトゥコージー・ラーオは同日の戦闘で死亡している)。 また、1月14日の戦闘ではシンディア家の当主ジャンコージー・ラーオも殺害されている。これにより、シンディア家の当主位は三年間空位が続いたが、プネーの宰相府からは事実上独立し、その統制から外れて行動するようになった。 この間、1765年にマハーダージーは当時グワーリヤルを支配していたゴーハドのラージャからグワーリヤルを奪い、その支配権を押収して自らの領土とした。 そして、1768年1月18日、マハーダージーは正式に当主位を継承し、ここから彼の北インドへの進撃が始まるところとなる。
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