第三次パーニーパットの戦いと死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/15 06:02 UTC 版)
「スーラジ・マル」の記事における「第三次パーニーパットの戦いと死」の解説
1760年8月、スーラジ・マルはマラーター同盟軍ともにデリーへ入城し、アフガン勢力ドゥッラーニー朝を迎え撃とうとした。その際、軍総司令官のサダーシヴ・ラーオ・バーウにデリーを拠点にアフガン軍にゲリラ戦で対抗するように進言した。しかし、サダーシヴ・ラーオはこれを卑怯な戦い方だとして拒否したため、スーラジ・マルはデリーを去った。 1761年1月14日、マラーター同盟軍はアフガン軍にパーニーパットで敗れ、おびただしい数の死者を出した(第三次パーニーパットの戦い)。スーラジ・マルの予想通りであった。 その後、ドゥッラーニー朝は北インドから撤退したものの、スーラジ・マルはその代官として残されたローヒラー族のナジーブ・ウッダウラと対立した。ナジーブ・ウッダウラはパーニーパットの戦いのち、ムガル帝国の実権を握った人物であった。 1763年12月25日、スーラジ・マルはナジーブ・ウッダウラとデリー近郊で戦った際、伏兵の攻撃に遭って死亡した。死後、息子のジャワーハル・シングが王位を継承したが、王国はしだいに分裂していった。
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