アスキス内閣海軍大臣
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「アーサー・バルフォア」の記事における「アスキス内閣海軍大臣」の解説
第一次世界大戦中の1915年5月にハーバート・ヘンリー・アスキス首相が保守党・自由党の大連立による挙国一致内閣の第2次アスキス内閣(英語版)を組閣すると、ガリポリの戦い(ダーダネルス作戦)で失態を犯したウィンストン・チャーチルの後任として海軍大臣(英語版)として入閣した。 挙国一致内閣で最初に問題となったのはチャーチル前海軍大臣(現ランカスター公領担当大臣)が発動したダーダネルス作戦を中止すべきか否かだった。植民地大臣として入閣したボナー・ローやインド担当大臣として入閣したオースティン・チェンバレンらは撤退を主張したが、バルフォアやチャーチル、陸軍大臣キッチナー伯爵元帥、国璽尚書カーゾン・オヴ・ケドルストン侯、無任所大臣ランズダウン侯爵らは「トルコ相手に撤退などしたら他の東洋民族の独立運動にも影響を与える」として反対した。しかし9月にはブルガリア王国がドイツ側で参戦したことでセルビアを重点的に支える必要性が出てきた。そのためダーダネルス撤退論は強まり、11月にはボナー・ローが職を賭してダーダネルス撤退を求めるようになった。こうした中の11月23日、バルフォア、キッチナー伯、ボナー・ロー、ロイド・ジョージ、外務大臣エドワード・グレイで構成される軍事委員会は撤退を決議した。チャーチルとカーゾン・オブ・ケドルストン侯はなおも撤退に反対していたが、退けられた。 1916年5月にはユトランド海戦があった。制海権を失うことはなかったものの、王立海軍の損害はドイツ海軍より大きく、世界最強の海軍国の自負心を傷を付けられ、国民の士気低下を招いた。 1916年12月に入ると「少数の軍事委員会」の創設とその議長の座をめぐって首相アスキスと陸相ロイド・ジョージの関係が破局し、12月5日にはロイド・ジョージが辞職した。自由党内ではアスキスを支持する者が多かったが、保守党内では強力な政権ができるならロイド・ジョージに任せた方が良いという意見が多かった。アスキスはバルフォアが支持してくれることを期待して彼に意見を聞こうとしたが、バルフォアも他の保守党閣僚とほぼ同意見だった。ロイド・ジョージはバルフォアを指導力不足と嫌っており、組閣できたならバルフォアを海軍大臣から解任しようと考えていたが、それでもバルフォアのロイド・ジョージ支持の意思は変わらなかった。彼はアスキスへの手紙の中で「ロイド・ジョージが議長となって軍事委員会をやるという話だが、一つやらせてみてはどうだろうか。ついては自分が海相であるのが邪魔と聞く。だから自分は辞めようと思う」と書いている。 これで保守党の全閣僚がロイド・ジョージを支持して辞職を表明したことになり、アスキスは同日中に総辞職した。一方でアスキスは「誰か中立的な立場の者が首相になるのでない限り、私は協力しない」と宣言したため、ジョージ5世は後任の首相の選定に苦慮した。このままでは次の内閣が作れないと憂慮したボナー・ローとロイド・ジョージは翌6日朝にも元老バルフォアのもとを訪れて意見を聞いたが、この際にバルフォアは「全ては御前会議で決してはどうか」と提案した。それに賛成したボナー・ローがジョージ5世に「後任の首相を決めるため各党代表による御前会議を開催していただきたい」と上奏した結果、同日午後3時から御前会議が開催されることになった。御前会議に先立ってジョージ5世はバルフォアを個別に引見したが、後任の首相を決められそうになければバルフォアに首相になってほしいと要請し、バルフォアもこれを了承した。 予定通り午後3時からバルフォアを進行役とする御前会議が開催された。自由党のアスキスとロイド・ジョージ、保守党のボナー・ロー、労働党のヘンダーソンが参加した。この会議の詳細は出席者ごとに証言が異なるが、国王がアスキスにボナー・ローの内閣かロイド・ジョージの内閣に入閣することを希望したが、アスキスは自由党内で同意を得る自信がなかったので即答を避けたという流れのようである。いずれにしても御前会議後、アスキスは自由党幹部会議で自分が次期内閣に入閣すべきかどうかを諮ったうえで入閣しないことを表明し、ボナー・ローも組閣を断念してロイド・ジョージ支持を表明したので、12月6日午後7時にロイド・ジョージが組閣の大命を受けることになった。
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アスキス内閣海軍大臣
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「ウィンストン・チャーチル」の記事における「アスキス内閣海軍大臣」の解説
内閣の帝国防衛委員会の席上、戦争大臣ホールデン子爵が海軍にも陸軍の帝国参謀本部に相当する組織を設置すべきであると主張した。レジナルド・マッケナ海軍大臣は反対したが、委員のほとんどや首相も賛同したことで、マッケナは辞任した。1911年10月23日、後任としてチャーチルが海軍大臣に就任した。閣僚としての地位は内相の方が上だが、ドイツとの開戦が迫っている情勢だけにこの閣僚職への就任は責任重大であった。チャーチルは内務大臣として海軍火薬庫に警備を派遣するなどドイツとの戦争準備に尽力し、また帝国防衛委員会の会合にも積極的に参加し海軍の軍備や組織の問題に強い関心を持っており、その熱意をアスキスに認められていた。またアスキスはチャーチルを急進派から切り離すために就任を命じたともされる。 なお、海軍大臣在任中、自身が尊敬していたオリバー・クロムウェルの名前を戦艦につけようと、国王ジョージ5世に何度か提案しているが、「国王を処刑した人物の名前を戦艦につけることはできない」と退けられている。 チャーチルは優生学の支持者として、1913年の精神薄弱者法(英語版)の起草に参加した。法律は最終的に知的障害者の強制収容を可能にするものとして可決したが、チャーチルが事前に主張した強制不妊手術は否決された。
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