アスキス内閣海軍大臣とは? わかりやすく解説

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アスキス内閣海軍大臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 23:55 UTC 版)

アーサー・バルフォア」の記事における「アスキス内閣海軍大臣」の解説

第一次世界大戦中1915年5月ハーバート・ヘンリー・アスキス首相保守党自由党大連立による挙国一致内閣第2次アスキス内閣英語版)を組閣すると、ガリポリの戦いダーダネルス作戦)で失態犯したウィンストン・チャーチル後任として海軍大臣英語版)として入閣した挙国一致内閣最初に問題となったのはチャーチル前海大臣(現ランカスター公領担当大臣)が発動しダーダネルス作戦中止すべきか否かだった。植民地大臣として入閣したボナー・ローインド担当大臣として入閣したオースティン・チェンバレンらは撤退主張したが、バルフォアチャーチル陸軍大臣キッチナー伯爵元帥国璽尚書カーゾン・オヴ・ケドルストン侯、無任所大臣ランズダウン侯爵らは「トルコ相手撤退などしたら他の東洋民族独立運動にも影響与える」として反対した。しかし9月にはブルガリア王国ドイツ側参戦したことでセルビア重点的に支え必要性出てきた。そのためダーダネルス撤退論は強まり11月にはボナー・ローが職を賭してダーダネルス撤退求めようになったこうした中の11月23日バルフォアキッチナー伯、ボナー・ローロイド・ジョージ外務大臣エドワード・グレイ構成される軍事委員会は撤退決議したチャーチルとカーゾン・オブ・ケドルストン侯はなおも撤退反対していたが、退けられた。 1916年5月にはユトランド海戦があった。制海権を失うことはなかったものの、王立海軍損害ドイツ海軍より大きく世界最強海軍国自負心を傷を付けられ国民士気低下招いた1916年12月に入ると「少数軍事委員会」の創設とその議長の座をめぐって首相アスキス陸相ロイド・ジョージの関係が破局し、12月5日にはロイド・ジョージ辞職した自由党内ではアスキス支持する者が多かったが、保守党内では強力な政権ができるならロイド・ジョージ任せた方が良いという意見多かったアスキスバルフォア支持してくれることを期待して彼に意見聞こうとしたが、バルフォアも他の保守党閣僚とほぼ同意見だった。ロイド・ジョージバルフォア指導力不足と嫌っており、組閣できたならバルフォア海軍大臣から解任しようと考えていたが、それでもバルフォアロイド・ジョージ支持意思は変わらなかった。彼はアスキスの手紙の中で「ロイド・ジョージ議長となって軍事委員会をやるという話だが、一つやらせてみてはどうだろうか。ついては自分海相であるのが邪魔と聞く。だから自分辞めようと思う」と書いている。 これで保守党の全閣僚ロイド・ジョージ支持して辞職表明したことになり、アスキス同日中に総辞職した一方でアスキスは「誰か中立的な立場の者が首相になるのでない限り、私は協力しない」と宣言したため、ジョージ5世後任首相選定苦慮したこのままでは次の内閣作れないと憂慮しボナー・ローロイド・ジョージは翌6日朝にも元老バルフォアのもとを訪れて意見聞いたが、この際バルフォアは「全て御前会議決してはどうか」と提案した。それに賛成したボナー・ロージョージ5世に「後任首相決めるため各党代表による御前会議開催していただきたい」と上奏した結果同日午後3時から御前会議開催されることになった御前会議先立ってジョージ5世バルフォア個別引見したが、後任首相決められそうになけれバルフォア首相になってほしいと要請しバルフォアもこれを了承した予定通り午後3時からバルフォア進行役とする御前会議開催された。自由党アスキスロイド・ジョージ保守党ボナー・ロー労働党ヘンダーソン参加した。この会議詳細出席者ごとに証言異なるが、国王アスキスボナー・ロー内閣ロイド・ジョージ内閣入閣することを希望したが、アスキス自由党内で同意を得る自信がなかったので即答避けたという流れのようである。いずれにしても御前会議後、アスキス自由党幹部会議で自分次期内閣入閣すべきかどうかを諮ったうえで入閣しないことを表明しボナー・ロー組閣断念してロイド・ジョージ支持表明したので、12月6日午後7時ロイド・ジョージ組閣の大命を受けることになった

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アスキス内閣海軍大臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:08 UTC 版)

ウィンストン・チャーチル」の記事における「アスキス内閣海軍大臣」の解説

内閣帝国防衛委員会席上戦争大臣ホールデン子爵海軍にも陸軍帝国参謀本部相当する組織設置すべきである主張したレジナルド・マッケナ海軍大臣反対したが、委員のほとんどや首相賛同したことで、マッケナ辞任した1911年10月23日後任としてチャーチル海軍大臣就任した閣僚として地位内相の方が上だが、ドイツとの開戦迫っている情勢だけにこの閣僚職への就任責任重大であったチャーチル内務大臣として海軍火薬庫警備派遣するなどドイツとの戦争準備尽力し、また帝国防衛委員会会合にも積極的に参加し海軍軍備組織問題強い関心持っており、その熱意アスキス認められていた。またアスキスチャーチル急進派から切り離すために就任命じたともされる。 なお、海軍大臣在任中、自身尊敬していたオリバー・クロムウェルの名前を戦艦につけようと、国王ジョージ5世何度提案しているが、「国王処刑した人物の名前戦艦につけることはできない」と退けられている。 チャーチル優生学支持者として、1913年精神薄弱者法(英語版)の起草参加した法律最終的に知的障害者強制収容可能にするものとして可決したが、チャーチル事前に主張した強制不妊手術否決された。

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