ロシアとの講和とドイツの春季攻勢とは? わかりやすく解説

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ロシアとの講和とドイツの春季攻勢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:07 UTC 版)

第一次世界大戦」の記事における「ロシアとの講和とドイツの春季攻勢」の解説

ブレスト=リトフスクでの講和交渉において、ドイツ1月19日最終要求としてロシアポーランドリトアニア、西ラトビア放棄するよう求めロシア代表レフ・トロツキー講和交渉一時中断求めたペトログラード交渉遅滞提案したトロツキー対し政府中央委員会西欧プロレタリアート蜂起期待して提案受け入れた1月25日、非ボルシェヴィキウクライナ中央ラーダウクライナの独立宣言2月9日には中央同盟国ウクライナ人民共和国単独講和した(ブレスト=リトフスク条約英語版))。中央同盟国ウクライナ西部領土について大幅に譲歩する代償としてウクライナからの穀物大量に要求した。また同時にロシアに平和条件受け入れるよう最後通牒発したが、トロツキードイツでの革命期待して条約には署名せず一方的に動員解除宣言したその結果ドイツ2月18日にファウストシュラーク作戦発動、数週間ロシアバルト海西部国境ウクライナ西部クリミア半島ドネツ川ベラルーシ工業地帯占領したドイツ講和条件をきつく変更したが、ロシア代表交渉せずに条件を飲まなければならず、3月3日ブレスト=リトフスク条約締結した中央同盟国リヴォニアを除く占領地から撤退したが、ロシアポーランドリトアニアクールラント放棄、さらにオスマン帝国請求したカフカース地方領土放棄しなければならなかった。ドイツ3月ドイツ緊密な関係を保ったままリトアニアリトアニア王国として独立させることに同意リトアニア独立宣言自体2月16日発された)。また6月28日にはペトログラード進軍しないことと、ブレスト=リトフスク条約承認せずにロシア内戦介入した諸国違ってイデオロギー対立はあったが)ボルシェビズム撲滅しないことを決定した8月27日にはロシアとの追加条約締結されロシアリヴォニア放棄しフィンランドウクライナの独立承認したロシアブレスト=リトフスク条約人口3分の1放棄工業資源大半を失う結果となった。しかし、ブレスト=リトフスク条約中央同盟国占領した領土小さかったなら、ドイツ軍はより多く兵力西部戦線投入でき、戦争の結末違っていたかも知れない、とする説もある。 東部戦線終戦見えてきたことで、ドイツ軍部は1917年11月11日モンス西部戦線での攻勢計画米軍到着する前に戦況逆転させようとした。いくつかの計画立てられヒンデンブルクルーデンドルフ1918年1月21日そのうち一つミヒャエル作戦英語版)を選んだミヒャエル作戦ではドイツ軍ソンム川沿岸サン=カンタン地域での攻勢行いその後北西転向してイギリス軍包囲試み英軍運河港口への撤退を強いることが計画された。東部戦線講和成立したことで、西部戦線ドイツ軍147師団から191師団増強一方連合国軍178師団しかなかった。ドイツ軍1914年以降西部戦線初め数的優位奪回したが、それでもわずかな優勢でしかなかった。3月10日ヒンデンブルク21日攻勢開始するよう命じた1918年3月21日早朝ドイツ春季攻勢始まった今度前回より短い(がそれでも5時間渡った砲撃の後、ドイツ突撃歩兵浸透戦術行いイギリスとの前線大きく前進した。しかし、ドイツ高司令部はその後数日間攻撃重点方向を度々変更した。さらに、ルーデンドルフが「一点強力な一撃という戦略放棄して三点攻撃選びいずれも突破に至るほどの強さにはならなかった」。その結果攻勢弱まりルーデンドルフ参謀本部批判された:「1914年パリ進軍したとき、ドイツ軍どうやって事態発展に応じて抵抗の最も少な戦線追撃戦闘常道に従わなかったのか」。これに加えてソンム地域酷く破壊されたため、補給追い付かずドイツ軍イギリス兵站略奪しなければならなかった。また、連合国軍物的優位奇襲により補われたものの、それは一時的にすぎなかった。ドイツ軍戦闘による損害は主に空襲による損害だったが、これは軍事史上初の出来事だった。4月3日事態急変により連合国フェルディナン・フォッシュ連合国軍総司令官任命したドイツ軍は80kmにわたる前線サン=カンタンから西のモンディディエまで)で60km前進したが、多大な損害出して大きな突起部を作り出しただけに終わり戦略的には何もなさなかった。オーストラリア軍アミアン近く反撃すると、ミヒャエル作戦4月5日終了した参謀本部戦略ミス指摘されルーデンドルフミヒャエル作戦代案採用した代案とはゲオルク作戦 (Operation Georg) のことであり、フランドルレイエ川30km前線わたって攻撃行いイーペルの西にある水道目標とした(レイエ川戦い英語版))。既にミヒャエル作戦による消耗があったため、ゲオルク作戦縮小余儀なくされ、「ゲオルゲッテ」(Georgette) と呼ばれた4月25日戦略要地のケンメルベルク(英語版)を占領するなど初期では成功収めたが、やがて膠着陥った攻勢一環として史上初の大規模な戦車戦が行われたが(第二次ヴィレ=ブルトヌー会戦英語版))、最も有名な出来事マンフレート・フォン・リヒトホーフェンの死であった。さらに、4月中旬頃より、疲れ切って失望していた部隊命令不服従が増えてきた。ドイツ高司令部は自軍戦意低下に気づかず、直後5月27日新し攻勢第三次エーヌ会戦英語版))を開始した。この攻勢では大砲6千門を用いた4時間にわたる砲撃が行われ、砲弾200発が発射された。ドイツ軍5月29日マルヌ川まで進軍6月3日にはヴィレル=コッテレ(英語版)まで前進した。この時点ではパリまで道路で90km、直線距離で62kmしか離れておらず、パリパリ砲射程圏内に入ったイギリス内閣イギリス海外派遣軍引き揚げ討議したが、6月5日にそれを却下したアメリカ軍到着したことでマルヌ線が再び安定するようになり、ドイツ高司令部は自軍損害補給の問題連合国軍の反撃理由6月5日/6日から攻撃停止した。続くベロー戦い英語版)ではアメリカ海兵隊参戦した9日ルーデンドルフはマ川(フランス語版)に対す攻撃開始したが(グナイゼナウ作戦Operation Gneisenau)、フランス軍アメリカ軍の反撃により14日中止した直後にはイタリア戦線オーストリア=ハンガリー最後の攻勢仕掛けた6月15日から22日までの第二次ピアーヴェ川の戦い)が失敗した西部戦線本当転機第二次マルヌ会戦英語版)だった。ドイツ軍7月15日攻撃開始初期には成功収めたが、18日フランス軍アメリカ軍小型軽量ルノー FT-17 軽戦車大量に投入して反撃転じた。既に疲れ果てて装備不足していたドイツ軍は不意を突かれて、3日前に渡ったばかりのマルヌ川を再び渡って撤退したドイツ第7軍英語版)は後方との連絡脅かされ、またドイツ軍5月6月占領した地域のほぼ全てから撤退した7月18日同時代歴史文献で「戦争転機となる瞬間」とされ、連合国軍ドイツ軍進軍停止させ、以降終戦までドイツ軍押した

※この「ロシアとの講和とドイツの春季攻勢」の解説は、「第一次世界大戦」の解説の一部です。
「ロシアとの講和とドイツの春季攻勢」を含む「第一次世界大戦」の記事については、「第一次世界大戦」の概要を参照ください。

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