ロシアとの講和とドイツの春季攻勢
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「第一次世界大戦」の記事における「ロシアとの講和とドイツの春季攻勢」の解説
ブレスト=リトフスクでの講和交渉において、ドイツは1月19日に最終要求としてロシアにポーランド、リトアニア、西ラトビアを放棄するよう求め、ロシア代表レフ・トロツキーは講和交渉の一時中断を求めた。ペトログラードで交渉の遅滞を提案したトロツキーに対し、政府と中央委員会は西欧のプロレタリアート蜂起を期待して提案を受け入れた。1月25日、非ボルシェヴィキのウクライナ中央ラーダはウクライナの独立を宣言、2月9日には中央同盟国がウクライナ人民共和国と単独講和した(ブレスト=リトフスク条約(英語版))。中央同盟国はウクライナ西部の領土について大幅に譲歩する代償としてウクライナからの穀物を大量に要求した。また同時にロシアに平和条件を受け入れるよう最後通牒を発したが、トロツキーはドイツでの革命に期待して、条約には署名せず一方的に動員解除を宣言した。その結果、ドイツは2月18日にファウストシュラーク作戦を発動、数週間でロシアのバルト海岸西部国境、ウクライナ西部、クリミア半島、ドネツ川とベラルーシの工業地帯を占領した。ドイツは講和条件をきつく変更したが、ロシア代表は交渉せずに条件を飲まなければならず、3月3日にブレスト=リトフスク条約を締結した。中央同盟国はリヴォニアを除く占領地から撤退したが、ロシアはポーランド、リトアニア、クールラントを放棄、さらにオスマン帝国が請求したカフカース地方の領土を放棄しなければならなかった。ドイツは3月にドイツと緊密な関係を保ったままリトアニアをリトアニア王国として独立させることに同意(リトアニア独立宣言自体は2月16日に発された)。また6月28日にはペトログラードに進軍しないことと、ブレスト=リトフスク条約を承認せずにロシア内戦に介入した諸国と違って(イデオロギー対立はあったが)ボルシェビズムを撲滅しないことを決定した。8月27日にはロシアとの追加条約が締結され、ロシアはリヴォニアを放棄し、フィンランドとウクライナの独立を承認した。ロシアはブレスト=リトフスク条約で人口の3分の1を放棄、工業と資源の大半を失う結果となった。しかし、ブレスト=リトフスク条約で中央同盟国が占領した領土が小さかったなら、ドイツ軍はより多くの兵力を西部戦線へ投入でき、戦争の結末も違っていたかも知れない、とする説もある。 東部戦線の終戦が見えてきたことで、ドイツ軍部は1917年11月11日にモンスで西部戦線での攻勢を計画、米軍が到着する前に戦況を逆転させようとした。いくつかの計画が立てられ、ヒンデンブルクとルーデンドルフは1918年1月21日にそのうちの一つ、ミヒャエル作戦(英語版)を選んだ。ミヒャエル作戦ではドイツ軍がソンム川沿岸のサン=カンタン地域での攻勢を行い、その後に北西に転向してイギリス軍の包囲を試み、英軍に運河港口への撤退を強いることが計画された。東部戦線の講和が成立したことで、西部戦線のドイツ軍は147個師団から191個師団に増強、一方連合国軍は178個師団しかなかった。ドイツ軍は1914年以降の西部戦線で初めて数的優位を奪回したが、それでもわずかな優勢でしかなかった。3月10日、ヒンデンブルクは21日に攻勢を開始するよう命じた。 1918年3月21日の早朝、ドイツの春季攻勢が始まった。今度は前回より短い(がそれでも5時間に渡った)砲撃の後、ドイツの突撃歩兵が浸透戦術を行い、イギリスとの前線で大きく前進した。しかし、ドイツ最高司令部はその後の数日間、攻撃の重点や方向を度々変更した。さらに、ルーデンドルフが「一点の強力な一撃という戦略を放棄して三点攻撃を選び、いずれも突破に至るほどの強さにはならなかった」。その結果、攻勢が弱まり、ルーデンドルフが参謀本部で批判された:「1914年にパリに進軍したとき、ドイツ軍はどうやって事態の発展に応じて抵抗の最も少ない戦線を追撃、戦闘の常道に従わなかったのか」。これに加えて、ソンム地域が酷く破壊されたため、補給が追い付かず、ドイツ軍はイギリスの兵站を略奪しなければならなかった。また、連合国軍の物的優位は奇襲により補われたものの、それは一時的にすぎなかった。ドイツ軍の戦闘による損害は主に空襲による損害だったが、これは軍事史上初の出来事だった。4月3日、事態の急変により連合国はフェルディナン・フォッシュを連合国軍総司令官に任命した。ドイツ軍は80kmにわたる前線(サン=カンタンから西のモンディディエまで)で60km前進したが、多大な損害を出して大きな突起部を作り出しただけに終わり、戦略的には何もなさなかった。オーストラリア軍がアミアン近くで反撃すると、ミヒャエル作戦は4月5日に終了した。 参謀本部で戦略ミスを指摘されたルーデンドルフはミヒャエル作戦の代案を採用した。代案とはゲオルク作戦 (Operation Georg) のことであり、フランドルのレイエ川で30kmの前線にわたって攻撃を行い、イーペルの西にある水道を目標とした(レイエ川の戦い(英語版))。既にミヒャエル作戦による消耗があったため、ゲオルク作戦は縮小を余儀なくされ、「ゲオルゲッテ」(Georgette) と呼ばれた。4月25日に戦略要地のケンメルベルク(英語版)を占領するなど初期では成功を収めたが、やがて膠着に陥った。攻勢の一環として史上初の大規模な戦車戦が行われたが(第二次ヴィレ=ブルトヌー会戦(英語版))、最も有名な出来事はマンフレート・フォン・リヒトホーフェンの死であった。さらに、4月中旬頃より、疲れ切って失望していた部隊の命令不服従が増えてきた。ドイツ最高司令部は自軍の戦意低下に気づかず、直後の5月27日に新しい攻勢(第三次エーヌ会戦(英語版))を開始した。この攻勢では大砲6千門を用いた4時間にわたる砲撃が行われ、砲弾200万発が発射された。ドイツ軍は5月29日にマルヌ川まで進軍、6月3日にはヴィレル=コッテレ(英語版)まで前進した。この時点ではパリまで道路で90km、直線距離で62kmしか離れておらず、パリがパリ砲の射程圏内に入った。イギリス内閣はイギリス海外派遣軍の引き揚げを討議したが、6月5日にそれを却下した。アメリカ軍が到着したことでマルヌ線が再び安定するようになり、ドイツ最高司令部は自軍の損害、補給の問題、連合国軍の反撃を理由に6月5日/6日から攻撃を停止した。続くベローの森の戦い(英語版)ではアメリカ海兵隊が参戦した。9日、ルーデンドルフはマ川(フランス語版)に対する攻撃を開始したが(グナイゼナウ作戦、Operation Gneisenau)、フランス軍とアメリカ軍の反撃により14日に中止した。直後にはイタリア戦線でオーストリア=ハンガリーが最後の攻勢を仕掛けた(6月15日から22日までの第二次ピアーヴェ川の戦い)が失敗した。西部戦線の本当の転機は第二次マルヌ会戦(英語版)だった。ドイツ軍は7月15日に攻撃を開始、初期には成功を収めたが、18日にフランス軍とアメリカ軍が小型軽量のルノー FT-17 軽戦車を大量に投入して反撃に転じた。既に疲れ果てて装備も不足していたドイツ軍は不意を突かれて、3日前に渡ったばかりのマルヌ川を再び渡って撤退した。ドイツ第7軍(英語版)は後方との連絡を脅かされ、またドイツ軍は5月と6月に占領した地域のほぼ全てから撤退した。7月18日は同時代の歴史文献で「戦争の転機となる瞬間」とされ、連合国軍はドイツ軍の進軍を停止させ、以降終戦までドイツ軍を押した。
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