ミヒャエル作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:37 UTC 版)
「西部戦線 (第一次世界大戦)」の記事における「ミヒャエル作戦」の解説
1918年3月21日、1918年春季攻勢(カイザー戦)の緒戦であるミヒャエル作戦(英語版)発動され、アミアンの鉄道結節点の英軍に対して攻撃が開始された。ルーデンドルフの狙いは英軍と仏軍との分断であった。ドイツ初の戦車A7Vも初めて実戦に投入された。 英仏軍の塹壕は浸透作戦によって破られた。これ以前は、典型的な塹壕への攻撃は長距離砲の砲撃と連続的な前線の大量攻撃によって行われていた。しかしながら、この攻勢では、ドイツ軍は短時間の砲撃を行い、弱点に歩兵を浸透させ、司令部と兵站エリアおよび強固な抵抗拠点の周囲の場所を攻撃した。こうして孤立した拠点を、より重武装の歩兵によって破壊した。この攻勢でドイツ軍は60キロという空前の前進を達成した。これほどの前進を果たしたのは1914年以来これが初めてだった。 前線は今やパリの120キロ以内まで移動していた。3門のクルップ製超大型列車砲「パリ砲」がパリに183発の砲弾を撃ち込んだ。このため多くの市民がパリから脱出した。ヴィルヘルム2世は3月24日を国民の祝日であると宣言した。多くのドイツ人が勝利が近いと確信した。しかしながら、補給欠乏と消耗によりドイツの攻撃が止まった。1918年3月から4月のドイツの死傷者は270,000名に上った。 ドイツ軍の攻勢を受けて、3月26日のドゥラーズ会議(英語版)において英仏両軍は指揮系統の統一に同意し、連合国軍最高司令部が設置された。総司令官にはフェルディナン・フォッシュが任命された。イギリスの陸軍元帥ダグラス・ヘイグはフォッシュに彼の軍の指揮を委ねた。フォッシュによる巧みな戦線の再構築によって、ルーデンドルフが意図していた突破の可能性は消滅し、従来と同様の消耗戦の様相を呈してきた。
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