リトアニア王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/09/07 12:02 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動リトアニア王国(リトアニア語:Lietuvos Karalystė)は、リトアニアの歴史上、短期間存在した王国である。
- リトアニア王国 (1251年-1263年) - 13世紀中期にリトアニア大公ミンダウガスが国王として戴冠することで成立した王国。
- リトアニア王国 (1918年) - 第一次世界大戦末期の1918年に短期間存在した立憲君主制の王国。
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リトアニア王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 06:44 UTC 版)
ミンダウガスによりリヴォニア騎士団に譲渡された土地日付領域1253年6月 ジェマイティアの一部 (ラセイニアイの半分、ベティガラ、アリオガラ及びラウクヴァ – その他半分が1254年3月にキリスト教会の司教領となる)、ズーキヤとナドルヴァの半分 1255年10月 セリヤ 1257年 カルスヴァ、ナドルヴァ、ジェマイティアの一部 1259年8月7日 ズーキヤの一部、スカルヴァとジェマイティアの全土 1260年6月 リトアニア全土 (ミンダウガスが後継者無くして没した場合) 1261年8月7日 セリヤ全土 1253年の夏の間に、ミンダウガスとその妻モルタは戴冠した。司教ハインリヒ・ハイデンリヒ・フォン・クルムが教会の儀式をつかさどり、アンドレアス・スティルランドが王冠を授けた。6月6日は今日では建国記念日 (Lithuanian: Valstybės diena)として祝われている。これは今日のリトアニアでは公的な祝日である。戴冠の正確な日付は知られていない。この日を広めた歴史家のエドヴァルダス・グダヴィシウスは、時折この日付について異議を唱えられている。戴冠された場所も知られていない。 およそ8年間に渡って、相対的に平和で安定した状態が続いた。ミンダウガスはこの機を利用して、東方への領土拡大を集中し、国家機構を設立して組織化した。黒ルーシ、ポラツク、ダウガヴァ川流域の主要な商業の中心地、そしてピンスクへの自己の影響力を強めた。同時にハールィチ=ヴォルィーニ大公国とも和平交渉を行い、ダヌィーロ大公の息子で、後にリトアニア大公となるシヴァンに娘を嫁がせている。リトアニアと西欧諸国及び教皇庁との関係は強化された。1255年にはローマ教皇アレクサンデル4世から、息子をリトアニア国王として戴冠させる許可を得ている。まず宮殿が出来上がり、行政制度、外交官の仕事が発足した。建国の印として長い銀の貨幣が発行された。ミンダウガスは、恐らくは今日のヴィリニュス大聖堂が建つ地への、ヴィリニュスの大聖堂の建設を支援した。 ミンダウガスは戴冠後、直ちにジェマイティアの一部、ナドルヴァ、ズーキヤ(ただし、これら西部の地にはミンダウガスの支配権が及んでいなかった)の地をリヴォニア騎士団に譲渡した。後年(1255年–1261年)ミンダウガスは更なる土地を騎士団に譲渡したのかどうか、歴史家の間で議論されている。譲渡は騎士団の偽造であったかもしれない。騎士団が偽造していたという仮説は、信憑性が高い。ミンダウガスが、事実上支配していなかった土地に関する証書があるという事実や、条約の立会人や印章が一定していないからである。 ミンダウガスとその敵対者であるダヌィーロは、黒ルーシをダヌィーロの息子であるロマンに譲渡する案で1255年に和解した。後に、ミンダウガスの息子であるヴァイシュヴィルガスは正教会の洗礼を受けて修道士となり、修道院と女子修道院を創設している。タウトヴィラスの敵愾心は、自身がミンダウガスの優位を認め、ポラツクを封土として貰い受けることで一時的に収まった。モンゴルとの直接の対決は、ベルケがリトアニアの支配に挑むために将軍ブルンダイ(ロシア語版、英語版)を派遣した(ダヌィーロその他の諸侯が参加することを命じている)1258年ないし1259年に起きている。『ノヴゴロド年代記』は、この時の行動について、リトアニアの敗北と記述しているが、これは同時に、ミンダウガスにとっては実質的な勝利と見て取ることが出来る。 ミンダウガス自身が、ヴォルタを甥とヴィーキンタスから守ったという記述は、『イパチエフ年代記』にわずかに登場する(他の2つの資料は“ミンダウガスの城”と記述している)。ヴォルタの位置は明記されておらず、彼の宮殿をめぐって、考古学上の探求以外にもかなりの推測がもたらされており、ケルナヴェとヴィリニュスを含む少なくとも14の異なる場所が提示されている。 ケルナヴェで進められている正式な考古学的発掘は“ミンダウガスの王座の土塁”と名付けられた場所の一部が崩壊した1979年に始まった。 この都市は現在、建国記念日の主だった祝典を執り行っている。
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