国王ミンダウガス
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「リトアニア王国 (1251年-1263年)」の記事における「国王ミンダウガス」の解説
詳細は「en:History of Lithuania (1219–1295)」を参照 13世紀初頭のリトアニアには大公国を形成することになる様々な異教を奉じたバルト系諸族が移住してきた。1230年までにミンダウガスが大公国の指導者として頭角を現した。1249年にミンダウガスと甥のタウトヴィラス及びゲドヴィダスとの間で内戦が勃発した。両陣営とも国外に同盟を求め、ミンダウガスはリヴォニア騎士団から軍事的援助のみならず、自身のカトリックの改宗及び幾つかのリトアニア西部の地の割譲と引き換えにリトアニア国王の地位の確約を得ることに成功した。王国の地位は1251年 6月17日にミンダウガスがクルム司教の手でローマ教皇インノケンティウス4世から送られた王冠を授けられたことで実現した。 2年後にミンダウガスとその妻モルタはそれぞれリトアニア国王・女王として戴冠した。 1255年にミンダウガスは教皇アレクサンデル4世から息子を国王として戴冠させる許可を得た。 ミンダウガスの戴冠とリヴォニア騎士団との同盟はリトアニアと騎士団との平和な関係を可能とした。この期間中にリトアニアは東方に拡大し、騎士団はジェマイティヤの征服を試みた。甥のトレニオタ誘いを受けてミンダウガスは騎士団との和平を破棄して更には1259年のスクオダスの戦い及び1260年のドゥルベの戦いで騎士団を破っている。騎士団との戦いによりトレニオタの影響力は増し、その優位権はミンダウガスから逸脱した。争いは1263年にミンダウガスが2人の息子とともに暗殺されることで終焉し、リトアニアは異教信仰に戻り、王国としての地位を喪失した。リトアニアはリトアニア大公国として存続し、以後に続く君主はキリスト教に改宗(リトアニアのキリスト教化はにのみ起きた)するまでは国王として戴冠出来なかった。
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