国王ルイ16世への抵抗
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「カロン・ド・ボーマルシェ」の記事における「国王ルイ16世への抵抗」の解説
『フィガロの結婚』は、ボーマルシェの最大の庇護者であったコンチ大公の「『セビリアの理髪師』以上に陽気な、フィガロ一家を舞台に登場させてほしい」という要請に応えて制作された作品であった。その完成を目にすることなく大公は亡くなってしまったが、ボーマルシェは大公との約束を果たそうと必死になり、結局1778年に完成させた。1781年9月、オペラ・コミックに客足を奪われ、興行成績の低迷に苦しんでいたコメディー・フランセーズの委員会は、同作品を上演作品として受理することを決めた。これに気を良くしたボーマルシェは、警察長官に検閲申請を行い、そこでも問題なしと判断されて、正式に上演許可を獲得した。 『フィガロの結婚』を高く評価していた貴族たちからの要請を受けて、国王ルイ16世も判断を下すために同作品を取り寄せた。これを朗読させ、王妃マリー・アントワネットとともに耳を傾けたという。この時、朗読役を任されたカンパン夫人の回想録に、この時の国王夫妻の反応が記録されている: …わたしが読み始めると、国王はたびたび称賛や非難の声を上げられて朗読を中断なさった。一番多く叫ばれたのは次のようなことだ。「これは悪趣味だ、この男は絶えず舞台にイタリア風の奇抜な表現を持ち込む癖がある。」(略)とりわけ国内の牢獄をやっつける台詞のところでもって、国王は激しい勢いで立ち上がられ、こう言われた。「これは唾棄すべきものだ。絶対に上演は許さん。この芝居を上演しても危険で無分別な行為でないということになるには、まずバスティーユ牢獄を破壊するのが先だろう。この男は政府の中のあらゆる尊敬すべきものを愚弄している。」「では上演致しませんの?」王妃がお尋ねになった。「そう、絶対に。確信してよろしい。」と国王は答えられたのだ。… 今日においては「凡庸そのもの」とか「無能」とか評価されることも多いルイ16世であるが、大勢の貴族が『フィガロの結婚』を表面的にしか理解していなかった(からこそ、作品上演を支持した)のに対して、その危険性を見抜いて上演禁止を言い渡したという事実は、結果論ではあるが国王に先見の明があったとも言える。この当時のフランス社会においては、市民たちはアメリカ独立戦争に刺激されて着々と力を蓄えつつあったし、貴族の間でも啓蒙思想が広く受け入れられていた。まさか10年もたたないうちに、自分たちが「フィガロ」のごとき市民たちに攻撃されるとは考えもしていなかったため、フィガロの権威を恐れもしない陽気な不屈さを愛し、その辛口な台詞の裏に隠された権威否定や身分制度批判の意図に気づかなかったのである。 こうして、作品の上演ならびに出版は禁止されてしまった。だが国王が自ら上演禁止処分を下したという事実が、却ってパリの人々の関心を刺激する結果となり、ボーマルシェはあちこちで朗読をせがまれた。作品の上演許可を取り付けるために、国王への抵抗として、彼はこの朗読を利用しようと考えた。毎日のように朗読会が開かれ、その巧みな朗読に大勢の人々が夢中になったという。こうして自信を深めたボーマルシェは、2度目の検閲申請を行った。この際の検閲官には、ジャン=バティスト=アントワーヌ・シュアール( Jean-Baptiste-Antoine Suard )が選ばれた。シュアールはアカデミー・フランセーズ会員であった(席次26番)が、平凡な劇作家であり、劇作家として成功しているボーマルシェを快く思っていなかったらしい。このような人間が検閲を審査するのだから、不道徳として却下された。 1783年になっても上演禁止措置は続いたが、同年6月13日、突然コメディー・フランセーズの役者たちにムニュ・プレジール劇場( Hôtel des Menus Plaisirs )で『フィガロの結婚』を上演するように通達が届いた。正確にはわからないのだが、王弟アルトワ伯爵が兄である国王に迫って、許可を出させたのだろうと推測されている。このことは瞬く間に貴族たちの間に広がり、公演のチケットは完売する熱狂ぶりであったが、幕が開く寸前で国王の使者が現れ、上演禁止の決定を伝えたのであった。優柔不断な性格であったと伝えられる王のことだから、この件でもその性格が出たのだろう。だが、まさに寸前でお預けを食らった貴族たちは黙っていなかった。この決定には反発が大きく、結局国王は9月26日になって、ヴォドルイユ伯爵の別荘で300人の貴族を前にした上演を許したのであった。 これに勢いをつけたボーマルシェは、作品の健全性を証明しようと躍起になった。『フィガロの結婚』の検閲申請をさらに4度にわたって繰り返し、彼の味方であったブルトィユ男爵に請願して「文学法廷」なるものを開催してもらうなど、徹底していた。これらをすべてクリアしたことで、同作品には有識者たちの信用が与えられたのである。その結果、抵抗を続けていたルイ16世もさすがに折れ、ついに市中での公演許可を出し、1784年4月27日に初演が行われた。パリ市民が全員押しかけてきたのではないかと思うほどの大成功であったという。 ところが、1785年3月にボーマルシェは筆禍事件を起こした。この事件は、フランス発の日刊紙『ジュルナル・ド・パリ』に匿名の記事が載ったことに端を発する。ボーマルシェはこの記事に反応し、返答を同紙に掲載させたが、両者のやり取りは次第に過激化していった。これに腹を立てたボーマルシェは、3月6日付で同紙の編集局に手紙を送ったのだが、その中の表現に問題があった。この手紙の「劇公演を実現するためにライオンや虎を打ち負かさなければならなかったわたしが…」という記述の「ライオンや虎」という比喩を、国王ルイ16世は自分たち夫妻のことであると解釈したのだ。元々日刊紙宛てに送られた手紙であったが、すぐにその内容は国王の知るところとなり、この記述が問題となってボーマルシェはサン=ラザール牢獄に入れられてしまった。この牢獄は、政治犯や貴族が収容されるところではなく、放蕩のあまり身を持ち崩した良家の子弟などが入れられる牢獄であった。53歳にもなってこのような牢獄に入れられたという事実は、ボーマルシェのプライドをかなり傷つけたようだ。 しばらく面白がって見ていた世間も、さすがにこの王の行為を行き過ぎた横暴と見るようになった。5日後には釈放命令が出されたが、プライドを傷つけられて意固地になっているボーマルシェは、中々その命令に従おうとしなかった。懸命な周囲の人々の説得によってしぶしぶ牢獄を出た彼は、王に名誉回復のための条件を複数突きつけた。いくつかの条件は全く無視されたようだが、国王はその代わりとして、ヴェルサイユ宮殿の離宮にボーマルシェを招待し、『セビリアの理髪師』を王妃や王弟に演じさせたり、アメリカ独立戦争で被った負債の補償として80万リーヴルを下賜するなど、要求を上回る賠償をしたと言えるだろう。
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