国王ルイ16世への抵抗とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 国王ルイ16世への抵抗の意味・解説 

国王ルイ16世への抵抗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 09:29 UTC 版)

カロン・ド・ボーマルシェ」の記事における「国王ルイ16世への抵抗」の解説

フィガロの結婚』は、ボーマルシェ最大庇護者であったコンチ大公の「『セビリアの理髪師以上に陽気なフィガロ一家舞台登場させてほしい」という要請応えて制作され作品であった。その完成目にすることなく大公亡くなってしまったが、ボーマルシェ大公との約束果たそう必死になり、結局1778年完成させた。1781年9月オペラ・コミック客足奪われ興行成績低迷苦しんでいたコメディー・フランセーズ委員会は、同作品を上演作品として受理することを決めた。これに気を良くしたボーマルシェは、警察長官に検閲申請行い、そこでも問題なし判断されて、正式に上演許可獲得した。 『フィガロの結婚』を高く評価していた貴族たちから要請受けて国王ルイ16世判断下すために同作品を取り寄せた。これを朗読させ、王妃マリー・アントワネットとともに耳を傾けたという。この時、朗読役を任されカンパン夫人回想録に、この時の国王夫妻反応記録されている: …わたしが読み始めると、国王はたびたび称賛非難の声を上げられ朗読中断なさった。一番多く叫ばれたのは次のようなことだ。「これは悪趣味だ、この男は絶え舞台イタリア風の奇抜な表現持ち込む癖がある。」(略)とりわけ国内牢獄やっつけ台詞のところでもって国王激し勢いで立ち上がられ、こう言われた。「これは唾棄すべきものだ。絶対に上演は許さん。この芝居上演しても危険で無分別な行為でないということなるには、まずバスティーユ牢獄破壊するのが先だろう。この男は政府の中のあらゆる尊敬すべきものを愚弄している。」「では上演致しませんの?」王妃お尋ねになった。「そう、絶対に確信してよろしい。」と国王答えられたのだ。… 今日においては凡庸そのもの」とか「無能」とか評価されることも多いルイ16世であるが、大勢貴族が『フィガロの結婚』を表面的にしか理解していなかった(からこそ作品上演支持した)のに対して、その危険性見抜いて上演禁止言い渡したという事実は、結果論ではあるが国王先見の明があったとも言える。この当時フランス社会においては市民たちはアメリカ独立戦争刺激され着々と力を蓄えつつあったし、貴族の間でも啓蒙思想広く受け入れられていた。まさか10年たたないうちに、自分たちが「フィガロ」のごとき市民たちに攻撃されるとは考えもしていなかったため、フィガロ権威恐れもしない陽気な不屈さ愛し、その辛口台詞の裏隠され権威否定身分制度批判意図に気づかなかったのである。 こうして、作品の上ならびに出版禁止されてしまった。だが国王が自ら上演禁止処分下したという事実が、却ってパリ人々関心刺激する結果となり、ボーマルシェあちこち朗読せがまれた。作品の上許可取り付けるために、国王への抵抗として、彼はこの朗読利用しよう考えた毎日のように朗読会開かれ、その巧み朗読大勢人々夢中になったという。こうして自信深めたボーマルシェは、2度目検閲申請行ったこの際検閲官には、ジャン=バティスト=アントワーヌ・シュアール( Jean-Baptiste-Antoine Suard )が選ばれた。シュアールアカデミー・フランセーズ会員であった(席次26番)が、平凡な劇作家であり、劇作家として成功しているボーマルシェ快く思ってなかったらしい。このような人間検閲審査するのだから、不道徳として却下された。 1783年になって上演禁止措置続いたが、同年6月13日、突然コメディー・フランセーズ役者たちにムニュ・プレジール劇場( Hôtel des Menus Plaisirs )で『フィガロの結婚』を上演するように通達届いた正確にわからないのだが、王弟アルトワ伯爵が兄である国王迫って許可を出させたのだろうと推測されている。このことは瞬く間貴族たちの間に広がり公演チケット完売する熱狂ぶりであったが、幕が開く寸前国王使者現れ上演禁止決定伝えたであった優柔不断な性格であった伝えられる王のことだから、この件でもその性格出たのだろう。だが、まさに寸前お預け食らった貴族たちは黙っていなかった。この決定には反発大きく結局国王9月26日になって、ヴォドルイユ伯爵別荘300人の貴族前にした上演許したであった。 これに勢いをつけたボーマルシェは、作品健全性証明しよう躍起になった。『フィガロの結婚』の検閲申請をさらに4度わたって繰り返し彼の味方であったブルトィユ男爵請願して「文学法廷」なるものを開催してもらうなど、徹底していた。これらをすべてクリアしたことで、同作品には有識者たちの信用与えられのであるその結果抵抗続けていたルイ16世さすがに折れ、ついに市中での公演許可出し1784年4月27日初演が行われた。パリ市民全員押しかけてきたのではないかと思うほどの大成功であったという。 ところが、1785年3月ボーマルシェ筆禍事件起こした。この事件は、フランス発の日刊紙『ジュルナル・ド・パリ』に匿名記事載ったことに端を発するボーマルシェはこの記事反応し返答を同紙に掲載させたが、両者やり取り次第過激化ていった。これに腹を立てたボーマルシェは、3月6日付で同紙の編集局手紙送ったのだが、その中の表現問題があった。この手紙の「劇公演実現するためにライオンや虎を打ち負かさなければならなかったわたしが…」という記述の「ライオンや虎」という比喩を、国王ルイ16世自分たち夫妻のことであると解釈したのだ。元々日刊紙宛て送られ手紙であったが、すぐにその内容国王の知るところとなり、この記述問題となってボーマルシェサン=ラザール牢獄入れられてしまった。この牢獄は、政治犯貴族収容されるところではなく放蕩のあまり身を持ち崩し良家の子弟などが入れられる牢獄であった53歳にもなってこのような牢獄入れられという事実は、ボーマルシェプライドをかなり傷つけたようだ。 しばらく面白がって見ていた世間も、さすがにこの王の行為行き過ぎた横暴と見るようになった5日後には釈放命令出されたが、プライドを傷つけられ意固地になっているボーマルシェは、中々その命令従おうとしなかった。懸命な周囲人々説得によってしぶしぶ牢獄出た彼は、王に名誉回復のための条件複数突きつけた。いくつかの条件は全く無視されたようだが、国王その代わりとして、ヴェルサイユ宮殿離宮ボーマルシェ招待し、『セビリアの理髪師』を王妃王弟演じさせたり、アメリカ独立戦争被った負債補償として80リーヴル下賜するなど、要求上回る賠償をしたと言えるだろう。

※この「国王ルイ16世への抵抗」の解説は、「カロン・ド・ボーマルシェ」の解説の一部です。
「国王ルイ16世への抵抗」を含む「カロン・ド・ボーマルシェ」の記事については、「カロン・ド・ボーマルシェ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「国王ルイ16世への抵抗」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「国王ルイ16世への抵抗」の関連用語

国王ルイ16世への抵抗のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



国王ルイ16世への抵抗のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのカロン・ド・ボーマルシェ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS