波長と世界大戦の予兆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 20:33 UTC 版)
1924年、セルビアの外交官ミロスラフ・スパライコビッチはバルカン紛争と第一次世界大戦に帰結された過程を振り返りながら、大戦前に国際体制の危機をもたらした最初の事件として伊土戦争を挙げた。イギリスの影響圏に入ったエジプトやフランスの保護領になったモロッコとは違って、トリポリタニアはバルカン半島と同様、オスマン帝国の核心領土だった。クリミア戦争以来、オスマン帝国の主権と領土を保全してきた列強の暗黙的な協力は伊土戦争が勃発した時点で、無用の長物に転落したことが明らかになった。 1907年に英露協商が締結された後も、イギリスはボスポラス海峡を経由して地中海へ進出しようとするロシアの試みを牽制した。でもロシアとともにオスマン帝国の崩壊を促すようなイタリアのトリポリ侵攻を支持したことは、それだけで欧州の勢力均衡に重大な転換が起きた事実を意味した。イタリアがトリポリタニアと東地中海でオスマン軍を敗退させた事態の推移を見守ったバルカン諸国はオスマン帝国と戦うに値するという勇気を得た。第一次バルカン戦争によってオスマン勢力が欧州大陸から放逐された結果、巨大な地政学的空白が伴った。奪取した旧オスマン領土の分配をめぐって起こったバルカン同盟内の紛糾は第二次バルカン戦争に飛び火され、ここで敗北して威信が傷つけられたブルガリアの代わりにセルビアがバルカン諸国の盟主として浮上、ロシアの庇護を受け始めた。 セルビアとロシアの連帯は大セルビア主義を煽ることと相まって、東方問題に関するオーストリア=ハンガリーの外交政策に取り返しのつかない衝撃を与えた。こんな構図は東方問題において主導権競争のためにまいど対立してきたオーストリア=ハンガリーとロシアの関係を一層悪化させ、大変動の中でバルカン情勢の不確実性が極度に増幅した。これほど高まった緊張は、1914年サラエボ事件と7月危機の局面でバルカン紛争を越え、従来の三国協商及び三国同盟にそれぞれ連動した列強の連鎖反応を引き起こし、これによって国際体制が瓦解され、ついに世界大戦へ突き進んだのだ。スパライコビッチによると、第一次世界大戦にまでつながったすべての事件は、イタリアのトリポリタニア侵攻から進展したものに過ぎなかった。
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