ロシアでの軍歴
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ヤムブルクが陥落した後、ロシア貴族100人で構成されたマスケット銃隊の指揮官に任命された。1705年にポーランドでピョートル1世に面会したとき、シェレメーテフ(英語版)連隊の少佐に任命され、1706年にポロツク連隊(По́лоцк)の中佐に任命された。1707年、ビハウ包囲戦(ロシア語版)で頭角を現し、1708年にはシベリア連隊の大佐に昇進した。以降も1708年12月のロムヌィ占領などドニエプル川流域でスウェーデン王カール12世とイヴァン・マゼーパに対し善戦した。1709年のポルタヴァの戦いではロシア軍右翼で1個旅団を率いた。その後は順調に昇進をつづけ、1712年8月に准将に、1712年9月に少将に、1720年7月に中将に昇進した。戦争の末期にあたる1720年から1721年ではスウェーデン海岸への襲撃を行い、ストックホルムから12マイルのところまで前衛を進めたこともあった。 1725年に聖アレクサンドル・ネフスキー勲章を授与され、サンクトペテルブルク、イングリア、ノヴゴロドの軍指揮官に任命された。翌年にはエストニアとクールラントの指揮官にも任命された。1727年にモーリス・ド・サックス(後のフランス大元帥)がロシアの意に反してクールラント公に即位したとき、レイシは彼を追い出すよう派遣された後リヴォニア総督とエストニア総督に任命された。1733年にポーランド継承戦争が勃発すると、ブルクハルト・クリストフ・フォン・ミュンニヒ元帥とともにザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世をポーランド王に据え、スタニスワフ・レシチニスキを廃位した。1734年のダンツィヒ攻囲戦の後、レイシはフリードリヒ・アウグスト2世から白鷲勲章(英語版)を授与された。以降もポーランドに残り、1735年4月にブサヴィツァ(Busawitza)でスタニスワフ派の軍勢2万を撃破して降伏させた。その後は軍勢1万を率いてマンハイム近くのオイゲン・フォン・ザヴォイエン率いる皇帝軍に加勢したが(ライン川戦役(ロシア語版))、オーストリアとフランスの間で講和したため、レイシは1736年にウィーンに戻り、サンクトペテルブルクへ戻る道中でロシア元帥昇進の報せをもらった。 続いてオーストリア・ロシア・トルコ戦争が勃発したため、レイシは1736年5月から6月にかけてアゾフを包囲(ロシア語版)して降伏させた。クリミア遠征に失敗して戻ってきたミュンニヒと合流した後、ウクライナで冬営に入った。1737年、軍勢4万でクリミアに遠征してクリミア軍戦線を突破した後、9月にウクライナに戻った。翌年にもクリミアに遠征したが、援護するはずだったロシア艦隊が嵐で破壊されたため、前年に奪取したクリミア軍戦線を再び襲った後冬営に入った。1739年は対スウェーデン戦争の危機があったためレイシの軍勢が予備軍としてウクライナに留まった。 1741年にロシア・スウェーデン戦争が正式に勃発すると、レイシはフィンランドでロシア軍を率いて、ジェームズ・キースを副官とした。ヴィルマンストランドの戦い(英語版)には勝利したが、それ以上の進軍が困難だったため、レイシはサンクトペテルブルクに戻り、自身の宮殿でスウェーデン軍指揮官カール・ヘンリク・ウランゲル(英語版)(ヴィルマンストランドの戦いで負傷して捕虜になった)を招待した。 レイシはエリザヴェータを女帝に即位させた宮廷クーデター(ロシア語版)には加担しなかったとされたが、官職や軍階などを維持した。1742年の復活祭に反乱したロシア衛兵隊を鎮圧した後、5月にヴィボルグで3万5千から3万6千の軍勢を閲兵、6月に軍を率いてフィンランドに進軍した。7月10日にFredericshamの要塞を占領すると、戦役を終えるよう命じられたが、レイシは軍議を開いた後ヘルシングフォシュまで進軍、スウェーデン軍1万7千人を降伏させた。1743年5月14日にヘルシングフォシュを発った後はニコライ・フョードロヴィチ・ゴロヴィン(ロシア語版)提督率いる艦隊に命じてハンゲ沖のスウェーデン艦隊を攻撃したが、スウェーデン艦隊は霧に紛れて逃走した。7月23日、別働隊を率いたキースがレイシと合流すると、ストックホルム近郊への襲撃が計画されたが、オーボ条約(英語版)により戦争が終結した。9月、レイシがサンクトペテルブルクに戻ると、エリザヴェータ女帝は祝宴を開いた。 以降はリヴォニアの領地にもどり、1751年5月11日に死去するまでそこで住んだ。
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