停滞とタンジマート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 01:29 UTC 版)
「オスマン帝国海軍」の記事における「停滞とタンジマート」の解説
18世紀にはオスマン帝国海軍は停滞期に入った。ヴェネツィアとの戦争では若干の成果を収めたものの、1768年に勃発したロシアとの戦争では、1770年のチェシメの海戦(英語版)で壊滅的敗北を喫した。1787年にふたたび起きたロシアとの戦争でも、オスマン海軍は、ロシア黒海艦隊に敗北してしまった。1820年代のギリシャ独立戦争では、弱体なギリシャ海軍にすら、火船戦術で翻弄された。特にギリシャ独立戦争中のナヴァリノの海戦では、近代化の進んだヨーロッパ列強海軍との実力差が大きく表れてしまった。 そこで、イギリスなどの援助を受けて大規模な海軍軍備の増強が図られた。1829年には当時世界最大の戦列艦「マフムディイェ(英語版)」を竣工させ、タンジマートの一環としても大量建艦を進めた。特に第32代スルタンのアブデュルアズィズは装甲艦に魅せられて海軍拡張を進め、その治世末期の1875年にはオスマン帝国海軍は装甲艦21隻、その他173隻を有する世界第三位の規模に達した。しかし、海軍技術発展が著しい時期で軍艦の旧式化が早かったこと、中古艦の輸入も多かったことなどから、艦船数の増加に比べて戦力は向上しなかった。例えばクリミア戦争中のシノープの海戦では、旧式な帆船のオスマン艦隊は、蒸気船主体のロシア艦隊に一方的に全滅させられてしまった。 人的側面でも、外国人への依存度が高いという問題があった。軍艦の機関員や航海士にはイギリスからの「お雇い外国人」が充てられており、イギリス人の機関長と航海長が実務を担っていた。ゆえに命令は主に英語で行われ、トルコ人の艦長や下士官を動かす時にのみトルコ語が使われた。さらに艦艇を整備するドックや工廠で働くのは、イギリス企業より派遣されたイギリス人の技師や工員で、その数は200名以上にのぼっていた。また、ギリシャが独立したことは、海軍の水兵や下士官の多くを海に慣れたギリシャ人に頼っていたオスマン海軍に打撃を与えた。以後は兵員供給源をトルコ人に頼らざるを得なくなったため、練度が低下した。
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