停滞と改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 05:14 UTC 版)
ソ連型社会主義は、特に1970年代以降は経済の疲弊が目立ち、食料や日用品にも事欠く状態になったために、各国の人民には不満が鬱積していた。特にノルマを重視する生産計画では質の問題が軽視され、特にソ連ではアメリカとの冷戦により国力に対して過重な軍拡競争を強いられたため、軽工業への生産資源配分が限られるという事情があった。 流通業などのサービス部門の価値は非常に低く見られ、共産党幹部など一部の特権階級(共産貴族)や外国人を除いた一般国民にはコスト意識や奉仕精神の低い従業員による劣悪なサービスしか提供されないことが多かった。流通部門の脆弱性のため、農業生産物が市場に出回るまでの損失率が異常に高かった。また、資本主義諸国で急速に進んだ情報工学の導入は一部の研究機関や軍需部門を除いて行われず、資本主義諸国で起こった情報革命は全く発生しなかったため、東西の経済格差は絶望的に開いた。また、ノルマ至上主義の構造的欠陥として環境問題への対応は完全に後手に回った。 これらの生活水準の低さや公害の拡大を政府の失政として批判することは社会主義体制への反革命行為と見なされ、危険な行為であったため、国民の間には事なかれ主義や政治的無関心が蔓延し国民の不満は社会の奥深くに、急速に蓄積された。また、共産党幹部の出世は担当部門におけるノルマの達成に左右されたため、立身出世や保身のための超過数値や虚偽報告が横行し、的確な経済政策を作成するための前提が崩れた。 この社会危機に対し、各国の共産主義政党政権が取った方針は実は多様であった。ソ連自身ではエフセイ・リーベルマンにより提唱された生産利潤制の導入が1960年代後半にアレクセイ・コスイギン首相によって行われたが、プラハの春以降の保守化によって中断され、レオニード・ブレジネフ時代の長期停滞へ進んでいった。プラハの春の後に保守派のグスターフ・フサークが政権を掌握したチェコスロヴァキアや、ブレジネフと良好な関係を維持したエーリッヒ・ホーネッカーが支配者となった東ドイツも政治・言論面の自由化を拒絶し、国営企業を中心とした中央集権・管理主義的な経済体制を維持した。これは国民の間に多くの不満を生み、特に西ドイツからの情報流入が容易な東ドイツでは西ドイツへ向けた国民の亡命が延々と続き、国家の維持には「ベルリンの壁」の構築による交流の遮断が不可欠となっていた。 一方、ハンガリー動乱で成立したハンガリーのカーダール・ヤーノシュ政権は外交面での対ソ追従とハンガリー社会主義労働者党による一党支配体制の堅持を確約してソ連による再度の軍事介入を封じた上で、民営企業の育成や農産物流通の自由化などの国内経済改革を実施し、社会主義国としては例外的な継続的経済成長に成功した(グヤーシュ・コミュニズム(en))。ポーランド(ポーランド人民共和国)ではスターリン批判後のポズナン暴動を受けてポーランド統一労働者党の第一書記に返り咲いたヴワディスワフ・ゴムウカが農業集団化の中止や全政治犯の釈放で一定の自由化路線へ舵を切り、1970年に後継者となったエドヴァルド・ギェレクは西側資本主義諸国からの借款や民間企業による投資の受け入れを積極的に進めたが、高度経済成長は1973年と1979年に続発した石油危機による原油価格の上昇に直撃されて短期間に終わり、特に1979年には債務返済の繰り延べを実施する事態となって、生活苦に反発した国民による1980年以降の独立自主管理労働組合「連帯」による活動を中核とした民主化運動へとつながった。 反対にアルバニアではアルバニア労働党第一書記のエンヴェル・ホッジャが一切の改革を拒否し、スターリン以上にスターリン主義的と呼ばれる独裁体制を築き、自らの方針に反する何人もの政府高官を処刑した。 1949年にソ連などの支援を受けて建国された中華人民共和国では、当初毛沢東らがソ連の農業集団化を安易に模倣した大躍進政策を実施するも悲惨な失敗に終わり、その後スターリン批判に反発して1960年代より中ソ対立が表面化し、両国間の国境紛争まで発生した。以降中華人民共和国はソ連を「社会帝国主義」と批判し、1970年代に入りソ連を牽制するために利害が一致したアメリカとの国交樹立に至る。 1960年代後半から1970年代前半にかけて、毛沢東やその夫人の江青らが指導し行われた文化大革命期以降の中華人民共和国は「ソ連型社会主義」とは異質な体制とみなされるようになった。これは、中国共産党の実権を掌握した鄧小平が1978年に改革開放政策を発表して、経済特区の設置を決めたことでより明確となった。ただし、政治面では党の指導性が貫徹され一党独裁制を敷いていることなど、かつてのソ連に似た面も多くみられ、このような体制は民主化を求め行われた1989年の第二次天安門事件でも揺らぐことはなかった。
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