「ドイツ民族」の台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/15 07:28 UTC 版)
「バイエルン人」の記事における「「ドイツ民族」の台頭」の解説
ナポレオン戦争で完全に神聖ローマ帝国が滅ぼされた後、幾つかの戦いを経てドイツ諸国はバルト・ドイツ人やスラヴ人からなるプロイセン王国と、バイエルン人のオーストリア帝国という二大国に集約されつつあった。ナポレオン戦争で破壊された欧州の秩序を戦争前へ戻そうとする諸国の思惑(ウィーン体制)は、国家連合としての神聖ローマ帝国を模したドイツ同盟の結成という結果を生んだ。だが同盟の中でもドイツ民族というドイツを統合する民族概念を掲げて単一国家による地域統一を望むプロイセン帝国と、領邦国家という枠組みと地方文化を重んじるオーストリアの隔たりは大きく、両者の対立は絶えなかった。 オーストリアはウィーン体制護持を望む周辺国の支援や、同盟の主要加盟国(バイエルン王国・ザクセン王国・ヴュルテンベルク王国・ヘッセン選帝侯国)の支援を受けてプロイセンの野心を封じ込めようとしたが、1848年革命の勃発やロシアとの対立、イタリア統一戦争での軍事的敗北によってその勢いは殺がれていった。そして普墺戦争で反ドイツ同盟側に立った北ドイツの小国を率いるプロイセンに、オーストリア・バイエルン・ザクセン・ヴュルテンベルク・ヘッセンの五大国は惨敗を喫した。ドイツ同盟は解散され、北ドイツ諸国はプロイセンに征服されるか隷属下に置かれた(北ドイツ連邦)。 それでもバイエルンとオーストリアは共に独立国家としての命脈を保っていたが、普仏戦争での勝利でドイツ民族主義が高揚すると最終的にオーストリア以外の南ドイツ諸国も北ドイツ連邦へ合流し、小ドイツ主義に基づいたドイツ統一が果たされた。残されたオーストリアは多民族国家として進む事を決意し、オーストリア=ハンガリー二重帝国として新たな出発をした。
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