スーダン時代・アフガニスタンへの帰還
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「ウサーマ・ビン・ラーディン」の記事における「スーダン時代・アフガニスタンへの帰還」の解説
スーダンに渡ったビン・ラーディンは同国の政権を担う民族イスラーム戦線と同盟関係を築くとともに、アルカーイダを国際的なテロ組織へと発展させた。1992年12月29日、イエメンのアデンでアメリカ軍が滞在するホテルが爆破され、2人のオーストリア人旅行者が死亡した。これがビン・ラーディンが関与した最初のテロ事件とされている。1993年2月26日、ビン・ラーディンとの関係が疑われるテロリストによってニューヨークで世界貿易センター爆破事件が引き起こされ、6人が死亡した。1993年、アメリカ政府はスーダンをテロ支援国家に指定した。1994年、サウジアラビア政府はビン・ラーディンの国籍を剥奪し、サウジアラビア国内に残された彼の財産を全て凍結した。同年には、ビン・ラーディンの一族も彼との関係を断絶した(それまでウサーマは一族の財産から毎年1億ドル余りを受け取っていた)。 1996年5月、スーダンのオマル・アル=バシール政権はアメリカおよびサウジアラビアからの圧力に屈し、ビン・ラーディンを国外に追放することを決定した。ビン・ラーディンは亡命先としてアフガニスタンのジャラーラーバードを選び、5月18日にチャーター機でスーダンを離れた。アフガニスタンに帰還したビン・ラーディンとアルカーイダはターリバーン政権の庇護を受け、ビン・ラーディンはターリバーンの最高指導者ムハンマド・オマルと親密な関係を築いた。 1996年8月、ビン・ラーディンは最初の「ファトワー(布告)」を発し、「2つの聖なるモスクの地(サウジアラビア)の占領者」であるアメリカに対して「ジハード(聖戦)」を宣言した。このファトワーでビン・ラーディンは、異教徒のアメリカ軍をアラビア半島から駆逐し、占領されている2つの聖地(メッカとマディーナ)を解放するよう全世界のムスリムに呼びかけた。1997年5月、ジハード団の指導者であったアイマン・ザワーヒリーがアフガニスタンのビン・ラーディンに合流し、アメリカに対するジハードを共に提唱するようになった。 1997年3月、ビン・ラーディンはパキスタン人ジャーナリストのハミド・ミル(英語版)によるインタビューでアメリカは間もなく超大国ではなくなると予測してアフガニスタン、パキスタン、イラン、中華人民共和国による反米同盟を提案し、中国の新疆ウイグル自治区でのテロは中国とイスラム世界が団結することを阻みたいCIAによるものだとして関与を否定した。 1998年2月、ビン・ラーディンとザワーヒリーは「ユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線」を結成した上で新たな「ファトワー」を発し、世界各地でアメリカとその同盟国の国民を軍人・民間人の区別なく殺害することが、「占領されているアル=アクサー・モスク(エルサレム)と聖なるモスク(メッカ)を解放」するために、「全ムスリムに課せられた義務である」と宣言した。 1998年8月7日、アルカーイダのテロリストがタンザニアのダルエスサラームとケニアのナイロビのアメリカ大使館をほぼ同時刻に爆破し、12人のアメリカ人を含む224人を殺害した。テロ事件が発生した1998年8月7日は、アメリカ軍のサウジアラビア派遣からちょうど8年後であった。1998年8月20日、テロへの報復として、アメリカ大統領ビル・クリントンはアフガニスタンとスーダンのアルカーイダ関連施設への攻撃を命じ、トマホーク巡航ミサイルによる爆撃が実施された。1999年6月、FBIはビン・ラーディンを大使館爆破事件の容疑者として最重要指名手配犯に指定した。アメリカ政府はターリバーン政権に対しビン・ラーディンとアルカーイダの引き渡しを求めたが、ターリバーンは応じなかったため、1999年10月には国際連合安全保障理事会において引き渡しを求める国際連合安全保障理事会決議1267が採択された。ターリバーン政権はこれにも応じず、アフガニスタンに対する経済制裁が発動された。 2000年10月、イエメンでアルカーイダのテロリストがアメリカ海軍の駆逐艦「コール」に自爆攻撃を仕掛け、17人の水兵を殺害した。2000年12月、国際連合安全保障理事会決議1333が採択され、ターリバーン政権に対し再度ビン・ラーディンの引き渡しが求められた。
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