インド勤務
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/12 07:37 UTC 版)
「ヘンリー・トービー・プリンセプ」の記事における「インド勤務」の解説
1808年12月東インド会社カレッジを離れ、1809年7月20日カルカッタに到着。このとき16歳だった。書記官養成訓練校で最初の2年を過ごす中で、高等文官ホルト・マッケンジー(1787年 - 1876年)と親交を深めた。その後サードル・ディーワー二―・アダーラト(英語版)裁判所の事務官に任命されてムルシダーバードに派遣され、同地で判事事務官及び登録官として些末な訴訟案件の処理を行った。バカルガニ管区(英語版)などで働いた後、1814年ベンガル総督官房の職員に任命され、総督モイラ伯爵の側近の1人となり、モイラ伯のアワド藩王国・北西部諸州(英語版)歴訪にも随行した。後に総督官房内の司法部局長に就任したが、英領インド諸州の法廷に対して本国政府の利益のために圧力をかける彼の態度は問題視され、巡行中の総督の滞在地に召喚されたこともあった。 1819年及び1820年、司法部局長の地位に留まったまま政庁の特別調査部に所属した。バルダマーン管区(英語版)の地租収入に関する調査を行い、ベンガル州に新法令を課し税収の改善を図った。1820年12月16日ペルシア語地域部局の局長となる。総督の諮問会議の評議員となり、1835年一時的にその地位を外れたこともあったが、1840年より終身評議員となった。1843年、インドにおける全ての官職から退役した。
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