成都武侯祠
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成都武侯祠 | |
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基本情報 | |
位置 | ![]() |
建立 | 清朝 |
入場料 | 50元 |
開放時間 | 09:00 - 18:00(入場は17:00迄) |
地図 | |
成都武侯祠(せいとぶこうし)は、中華人民共和国四川省成都市武侯区にある祠堂。三国時代の蜀の丞相・諸葛亮と、蜀漢の忠臣たち、その主君・劉備を祀る。
諸葛亮を祀った「武侯祠」と呼ばれる祠堂は中国各地にあるが、その中でも有名なもののひとつである。
中国西南地域最大の平野に位置し、古くから戦略の要衝として栄えてきた成都の地に立つ。この地は劉備が蜀漢を建国し、都を定めた場所でもある[1]。
歴史と沿革
三国時代・劉備の死

章武3年(223年)4月、劉備は永安宮で病死し、同年8月、諸葛亮によって成都南郊の「恵陵」に葬られた[注 1]。漢代の慣習に従い、恵陵の隣に劉備を祀る「先帝廟」別名「恵陵廟」が建立された[3][4]。
当初は小規模だったこの廟は、南朝斉の高帝・蕭道成の時代に拡張され、記念的な祠廟としての形を整えた[5]。この時点ではまだ「武侯祠」という名称は存在していない[6]。
唐代・武侯祠の興隆

武侯祠が劉備廟に付随して建てられたのは、約5世紀頃(420年~589年)と推測されている[注 2]。武侯祠の「武侯」とは「忠武侯」と諡号された諸葛亮を指し、彼を祀る霊廟を意味する。唐代に入ると、武侯祠は南郊の一大名勝として文人墨客が集う場所となった。唐の詩人である杜甫や李商隠は、この地の武侯祠や劉備廟について詩を残しており、両者が隣接しながらも独立した存在だったことが示唆される[8][9]。
元和2年(807年)に剣南西川節度使の武元衡が諸葛亮を拝謁後に建立を命じた「蜀丞相諸葛武侯祠堂碑」、通称「三絶碑」が建てられる。この碑は、裴度が撰文し、柳公綽が書丹、魯健が刻んだもので、諸葛亮の功績、裴度の文章、柳公綽の書法の三つが絶妙に調和していることから「三絶碑」と呼ばれる。この碑は、現在も武侯祠に残り、当時の武侯祠の重要性を示している[10][11]。
宋、元代を通じては、武侯祠の具体的な位置に大きな変化はない。この時代も、諸葛亮を祀る場所として多くの人々に崇敬され、修復が繰り返されてきたことが記録に残っている[12][13]。
明代・配置の大転換
大きな動きがあったのは明朝初期の頃である。蜀献王・朱椿は、劉備廟よりも武侯祠の香火が盛んなことに不快感を覚え、「武侯祠が恵陵と劉備廟に近すぎるのは礼制に合わない」、「君臣は一体であるべき」という理由を掲げ、武侯祠の廃止を命じた[14][13]。その上で、「劉備殿」の東西に廊下を増築し、東の廊に諸葛亮を、西の廊に関羽・張飛を合祀した[15]。これは劉備を主とする配置への回帰を意図したものだったが、皮肉にも「劉備が諸葛亮の廟に入った」という印象を与え、後世の認識に影響を与えた[16]。
清代・現在の姿へ

明末の度重なる戦乱で武侯祠は破壊されてしまうが、清の康熙10年から11年(1671年~1672年)に按察使の宋可法らの主導で再建される。この時、君臣の礼制を考慮し、「劉備殿」が前、「諸葛亮殿」が後に配置される「一祠二殿」という君臣合祀の形が確立され、「劉備殿」両廊には、蜀漢の功臣である文臣・武官が祀られることになり、現在見られる規模となった[17]。道光年間(1821年~1850年)に再修復されている[18]。なお、宋可法は再建の碑文で「武侯祠」と称し、「劉備廟」という呼称を避けている[19][16]。
乾隆21年(1756年)には、四川布政使の周琬が劉備廟と武侯祠の経緯を考証し、劉備廟の名を復活させようと「漢昭烈廟」(昭烈:劉備の諡号)の扁額を掲げた。しかし、民衆は依然として「武侯」と呼び続け、その試みは実らなかったという[20]。
現在、遺構は「成都武侯祠博物院」として1961年に中華人民共和国全国重点文物保護単位指定[21]、1984年成都武侯祠博物館成立、2008年国家一級博物館認定、2005年から廟会「武侯祠成都大廟会」が開催されている[22]。
主な特色

敷地面積は約15万平方メートル。劉備、諸葛亮と蜀漢の英雄を称え、君主と臣下を一体で祀る、中国国内で唯一の寺院である[23]。
武侯祠は主に恵陵、漢昭烈廟、諸葛亮殿、三義廟の「三国歴史遺跡区」と、川軍(四川軍)の有力指導者・劉湘の陵園が主体の「西区」、四川西部の民俗・風俗を反映した「錦里民俗区」の三大要素から成る[23]。
劉備殿、東西の廊に並ぶ文臣・武将合わせて28人の塑像は清代の民間芸術家の手によるもので、成都武侯祠博物館の『武侯祠大観』によると、「塑像の外見は後代の伝承や小説・戯曲由来である」と記されているように、これらは『三国志演義』を基にした、清代の戯曲の演者の姿を基に塑像されている[24]。
(以下の主な出典:「[25]」、成都武侯祠ウェブサイト)
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①漢昭烈廟大門
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②劉備像
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③関羽像
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③張飛像
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④趙雲像
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④馬超像
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④黄忠像
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⑤諸葛亮殿
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⑤諸葛亮像
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⑥三義廟
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⑦劉備の墓
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⑦紅牆緑竹
- ①漢昭烈廟:大門上部には、「漢昭烈廟」と金色の文字で書かれた大きな扁額が掲げられ、「漢」は劉備の国号、「昭烈」は劉備の諡号から。扁額の文字は、民国時代に第29軍軍長だった劉成勲の直筆によるもの。
- ②劉備殿:南北の建築様式を融合した特徴を持つ。特に劉備殿は南方の特色が強く、雨対策の梁や、龍・鳳凰・鶴などを透かし彫りした華麗な支え弓が特徴。殿内中央には、劉備が金箔に輝く3メートル超の塑像として鎮座する。劉備像の左後ろには、祖先に殉じた孫の劉諶が祀られ、子の劉禅は「亡国の暗君」を理由に排斥されている。
- ⑤諸葛亮殿:殿内には、綸巾と羽扇を持つ諸葛亮の塑像があり、武侯祠の中でも最も古い。殿の扁額や梁の言葉は、諸葛亮の『誡子書』から引用され、その清廉な生涯と高遠な理想を称賛している。諸葛亮像の左右には、共に戦場で散った息子・諸葛瞻と孫・諸葛尚の像が安置されている。
- ⑥三義廟:劉備、関羽、張飛の桃園の三結義を記念して建立した廟。元々は成都市中区の提督街にあり、清の康熙年間創建。乾隆・道光年間に修復が行われ、四進五殿の規模を誇った。しかし、文化大革命解放前夜には拝殿と正殿のみが残る状態となる。その後、都市拡張のため、現在の位置に移築され、2000年の春節に一般公開された。
- ⑦恵陵:劉備の陵墓。1700年以上の歴史を持つ。甘夫人と呉夫人も合葬されている。諸葛亮自身が埋葬を執り行ったことを、『三国志』「先主伝」に、陳寿が詳細を記している。戦乱で多くの古墓が破壊された明末期にも奇跡的に無傷で残り、盗掘の記録もない。劉備が生前、民衆に恩恵を与えた明君としての評価が、墓を保護する力となったためと推測されている(→「#民間伝承」も参照)。
対聯「攻心」

成都武侯祠内に飾られている40種弱の対聯のなかでもっとも名高い、清の趙藩(雲南省出身)の作品を紹介する。「攻心(聯)」と呼ばれ諸葛亮殿に掲げられている。
能攻心則反側自消、従古知兵非好戦。
よく心を攻めればすなわち反側も自ずから消ゆ、いにしえより兵を知るは戦を好むに非ず。
不審勢即寛厳皆誤、後来治蜀要深思。
勢を審らかにせずんばすなわち寛厳みな誤る、後来蜀を治めるに深思を要さん。
諸葛亮と馬謖との関係を踏まえたもので、前聯は七縦七擒の挿話、後聯は「泣いて馬謖を斬る」の故事を背景としている。後聯については、諸葛亮の厳格と劉璋の寛容とのふたりの政治姿勢の違いを述べたものとの解釈もある。
清光緒28年(1902年)、四川塩茶使者の官にあった趙藩が当時の四川総督への忠告として作成した。毛沢東が強い関心を寄せた対聯としても知られ、再度成都武侯祠を訪れている[29]。
民間伝承
恵陵と文臣武将廊の塑像には、以下の民間伝承が存在する。

- 恵陵の伝説:ある嵐の夜、財宝に誘われた盗賊たちが墓を掘り、墓室に侵入した。しかし、そこには意外な光景が広がっていた。墓の主である劉備が、鎧姿の衛士たちに守られ、手下と囲碁を楽しんでいたのだ。煌々と照らされる灯りの前で、盗賊たちはひざまずいて命乞いをした。劉備は顔も上げず「何か飲むか?」と淡々と問いかける。答えられない盗賊たちに、劉備は衛士に命じて瓊漿(けいしょう:美しい酒)と玉帯を与え、即刻立ち去るよう命じた。盗賊たちは酒を飲み、玉帯を巻いて這うように逃げ出した。生還を喜んだのも束の間、彼らの口は瓊漿が変じた漆のようなもので塞がれ言葉を失い、腰の玉帯は毒蛇に変わって彼らを締め付けた。許しを請おうと墓に戻ろうとしたが、墓の穴はすっかり消えていた[30][31]。
- 龐統の塑像の顔はなぜ黒いのか?:清朝の果親王が成都の武侯祠を訪れると、趙雲の像が「主君の奥方を守りきれなかった罰」として山門に置かれている[注 5]ことに驚き、その不当さを訴え、趙雲の長年の忠誠心と功績から、像を武侯祠に戻すよう住持を促した。そこで、住持は趙雲を武将の筆頭とし、若武者姿の現在の像とは異なる、文官の袍服を着た老人の姿で塑像した。これは「趙雲が長寿を全うした」ことを意味する。しかし、この処置に不満を抱いた人物がいた。龐統である。「私は趙雲よりも地位の高い軍師であり、彼は私の命令に従っていたではないか!さらに、趙雲は長生きして白髪白髭の姿なのに対し、私は短い生涯を閉じて青黒い顔で塑像されている!」と悔しがり、龐統の怒りが頂点に達すると、顔は紫黒色、まさに茄子色に染まってしまった[33]。
脚注
注釈
- ^ 恵陵の具体的な位置は考証できず、正式な調査もしていない。ただし、唐代には発掘記録がある[2]。
- ^ 根拠として、唐代の詩人・杜甫が、760年に諸葛亮を拝謁した後に残した詩『蜀相』「丞相祠堂何処尋,錦官城外柏森森」(丞相の祠堂はどこに尋ねるべきか、錦官城の外には柏がうっそうと生い茂る)とあり、庭園の専門家によると、「柏森森」という景観を形成するには、200年以上の歳月が必要だという[7]。
- ^ 両廊への配置は康熙十一年(1672年)の祠廟再建時に始まり、
東廊は呂凱、関興、費禕、龐統、鄧芝、陳震、蔣琬、董允、法正、劉巴、秦宓、許靖。
西廊は張苞、馬超、黄忠、姜維、張飛、趙雲、傅僉、向寵、李彪、廖化、張虎、張嶷。
道光年間(1821年~1850年)に再び修復された際、龐統と張飛は「劉備殿」へ、関興、張遵が父・張苞に代わり「丞相祠」に昇格した。
東廊は蔣琬、費禕、董允、法正、劉巴、呂乂、陳震、秦宓、許靖、董和、馬良、楊洪、王連、霍峻、呂凱。
西廊は趙雲、馬超、黄忠、向寵、廖化、鄧芝、傅僉、姜維、張嶷、張裔、張翼、王平、馬忠、向朗、李恢に変更され、趙雲はこの年から現在まで武将廊筆頭となっており、龐統は1953年の改修時に文臣廊に戻されている[28]。 - ^ 『三國志通俗演義』第八十二回:四辺喊声又起,雲大喝曰:“如此不聴吾言,後軍来也!”糜氏聴得,棄阿斗于地上,投枯井而死。
『三國演義』第四十一回:雲厲声曰:「夫人不聴吾言,追軍若至,為之奈何?」糜夫人乃棄阿斗於地,翻身投入枯井中而死。
厲声(れいせい:声を張り上げるという意味では大喝と同じだが、大喝よりも優しいニュアンスの言葉)、為之奈何?(どうしたらいいのか、途方に暮れること)※毛宗崗はこのように厲声や疑問文に修正することで表現を和らげている。 - ^ この伝承に書かれる「主君の奥方を守り切れなかったことから、山門を守る罰を受けた」という話は、嘉靖本『三国志通俗演義』(現在最も普及している毛宗崗本『三国志演義』よりも古い版)の注にある「後に子龍は武臣廟に入ることができず、伍子胥と共に門番を務めた。これは主母を叱責したため命を落とし、不忠であったためである」[32]という記述が由来で、その後、毛宗崗は趙雲が糜夫人を大喝した部分を語気を和らげて修正して注を削除した[注 4]ため、毛宗崗本『演義』が普及してからは、この話はあまり見られなくなっている。
出典
- ^ 甘・梅 2001, pp. 3–4.
- ^ 段成式『酉陽雑俎』巻十三
- ^ 『三国志』巻三十二「先主伝」
- ^ 甘・梅 2001, p. 4.
- ^ 『蜀中廣記』巻一、中国哲学書電子化計画。「《寰宇記》云:惠陵,蜀先主陵也。今有祠存,號曰惠陵祠。《周地圖》云:先主祠,在府西南八裏惠陵東七十步。齊高帝夢益州有天子鹵簿,詔刺史傅覃修立,而規制畢小」
- ^ 甘・梅 2001, pp. 3–5.
- ^ 甘・梅 2001, pp. 4–5.
- ^ 杜甫『絶句九首』第十三卷「移船先主廟,洗薬浣花溪」、李商隠『武侯廟古柏』「蜀相階前柏、龍蛇棒閣宮。陽成外江畔、老向恵陵東」
- ^ 甘・梅 2001, p. 5.
- ^ 欽定四庫全書『明一統志』卷六十七、中国哲学書電子化計画。「唐裴度撰武侯祠堂碑,栁公綽書之,在廟內。」
- ^ 甘・梅 2001, pp. 7–8.
- ^ 『明碑』「武侯祠在先主廟西,宋時屢加修葺,而元因之」
- ^ a b 甘・梅 2001, pp. 5–6.
- ^ 欽定四庫全書『明一統志』卷六十七、中国哲学書電子化計画。「先主廟在府城南二里舊在惠陵右附諸葛亮廟本朝洪武初合廟祀之」
- ^ 『明碑』「皇朝洪武初,以昭烈廟實為陵寢所在,今有司春秋致祭。蜀獻王之國,首謁是廟,謂君臣宜一體,乃位武侯于東,關、張于西,自為之祭文。至是武侯祠廢,而乃以其碑廟中。觀者不察,遂以武侯廟廟先主耳」
- ^ a b 甘・梅 2001, p. 6.
- ^ 『大清一統志』卷二百九十三、中国哲学書電子化計画。「十一年重建前殿,祀昭烈以闗張、北地王及諸將佐、左右配享後殿祀武侯…(中略)」
- ^ a b 葉 2023, p. 275.
- ^ 欽定四庫全書『懷麓堂集』巻六十六「重建諸葛武侯祠堂記」、中国哲学書電子化計画。「君子之用世,必心存乎正,則其猷為功業,光明俊偉,天下信之,後世知之…(中略)」
- ^ 甘・梅 2001, pp. 6–7.
- ^
(中国語) 『国務院関于公布第一批全国重点文物保護単位名単的通知録』国文習字40号, ウィキソースより閲覧。「(三)古建筑及历史紀念建筑物」编号119、分类号72、名称・武侯祠、时代・淸、地址・四川省成都市。
- ^ 成都武侯祠ウェブサイト「導覧及展覧」成都武侯祠簡介、「文化伝播」武侯祠成都大庙会より引用。
- ^ a b 成都武侯祠ウェブサイト「導覧及展覧」成都武侯祠簡介参照。
- ^ 葉 2023, pp. 277–278.
- ^ 甘・梅 2001, pp. 7–17.
- ^ 潘時彤 編「祀典・位次」『昭烈忠武陵廟志(巻一)』成都時代出版社、2007年、14-16頁。
- ^ 甘・梅 2001, p. 12.
- ^ 潘時彤 編「祀典・位次」『昭烈忠武陵廟志(巻一)』成都時代出版社、2007年、14-16頁。
- ^ 『走進成都武侯祠100問』 譚良嘯・方北辰主編、成都時代出版社 2015年。記事執筆 呉雲霞。日本語版 『蜀漢の謎100』史料で読み解く三国志の嘘と真実 第2巻 人見香緒訳、大樟樹出版社 2017年。
- ^ 『酉陽雜俎』「卷十三・尸穸」、中国哲学書電子化計画。「近有盜,發蜀先主墓。墓穴,盜數人齊見兩人張燈對棋,侍衛十餘。盜驚懼拜謝,一人顧曰:「爾飲乎?」乃各飲以一杯,兼乞與玉腰帶數條,命速出。盜至外,口已漆矣。帶乃巨蛇也。視其穴,已如舊矣」
- ^ 甘・梅 2001, pp. 15–16.
- ^ 『三國志通俗演義』第八十二回「長坂坡趙雲救主」後来子龍不得入武臣廟,与(伍)子胥把門,蓋因嚇喝主母,以致喪命,亦是不忠也。
- ^ 逹鵬貴捜集整理 編「二(伝説)2(地方伝説)武侯祠龐統的瞼為啥是茄子色的」『中国民間文学集成「四川巻」成都市西城区巻』成都市西城区民間文学集成編委員編、1989年、86-88頁。
参考文献
文献
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書籍
- 甘露、梅錚錚『神游三国 蜀漢遺跡導游』四川文芸出版社、2001年、3-17頁。ISBN 9787541119576。
- 葉威伸『武神傳説 歴史記憶与民間信仰中的趙雲』文津出版社有限公司、2023年。 ISBN 9789863391326。
関連項目
座標: 北緯30度38分41秒 東経104度02分58秒 / 北緯30.644591度 東経104.049372度
外部リンク
以下は中国語(簡体字)のウェブサイト。
- 成都武侯祠 - (成都武侯祠博物館・全国三国文化研究中心)成都武侯祠のウェブサイト。
- 成都武侯祠のページへのリンク