傅僉
父傅肜の死後、左中郎将を拝命、のちに関中都督となる《楊戯伝》。景耀六年(二六三)、魏の鍾会が漢城・楽城を包囲するとともに、胡烈を別働隊として関口を攻撃させた。このとき傅僉は蔣舒とともに関城を守っていたが、蔣舒が「いま賊軍が来たからには、出撃せずに楯籠るのは良計ではない」と言うので、傅僉は「ご命令の通り、城を守ってこそ手柄になるのだ。いま命令に反して出撃して、もし軍勢を失い国益を損ねてしまっては死んでも無益だ」と反対した《姜維伝》。 蔣舒は聞き入れず、手勢を率いて出発し、陰平まで行って胡烈に投降した。胡烈は関城を襲撃した。傅僉は蔣舒が敵軍と戦うつもりだと思い込んでいたので、不意を突かれ、格闘のすえ討死した。魏の人々は彼を義士だと思った《姜維伝》。 胡三省は「蔣舒に迎撃させても必ず勝てるわけではないのに、傅僉はどうして備えを怠ったのか。関城の失陥は傅僉にも責任がある」と批判している。 のち、晋の武帝は詔勅を下した。「蜀の将軍傅僉はかつて関城にあり、死を顧みることなく身をもって官軍に対抗した。傅僉の父傅肜もまた劉備のために戦死した。天下の善は一つであり、彼我によって違いがあろうか」。論者は父子二代にわたる忠義を称えたのであった《楊戯伝》 【参照】胡烈 / 司馬炎(武帝) / 蔣舒 / 鍾会 / 傅著 / 傅募 / 傅肜 / 劉備 / 陰平道 / 関中 / 魏 / 義陽郡 / 蜀 / 晋 / 成固県(楽城) / 沔陽県(漢城) / 陽安関(関口・関城) / 左中郎将 / 都督 |
傅僉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/29 05:37 UTC 版)
傅僉 | |
---|---|
蜀漢 関中都督 | |
出生 | 生年不明 荊州義陽郡 |
死去 | 景耀6年(263年) |
拼音 | Fú Qiān |
主君 | 劉禅 |
傅 僉(ふ せん)は、中国三国時代の蜀漢の武将。荊州義陽郡の人。父は傅彤。子は傅著・傅募。
経歴
父の傅彤も蜀漢に仕えたが、章武2年(222年)に夷陵の戦いで戦死した。傅僉はその後に左中郎将、次いで関中都督となった。
景耀6年(263年)、魏の侵攻を受けた時に傅僉は、蔣舒と共に陽安関を守っていた。守備の命令と傅僉の諫止にもかかわらず蔣舒は「出撃して敵に勝つことこそ手柄だ。それぞれ自分の思いどおりにやろう」と主張し、軍勢を率いて出撃。しかし実際には戦意はなく、魏の先鋒胡烈に降伏してしまう。その虚に乗じた胡烈の襲撃を受けた傅僉は、奮戦するもむなしく戦死を遂げた[1]。
後年、西晋の皇帝司馬炎は、傅彤・傅僉父子の忠義を称える詔を出した。子の傅著・傅募は官奴にされたが、後に赦免され庶人となった。
三国志演義
小説『三国志演義』では剛腹の荒武者で、鉄扇と薙刀を愛用している。姜維に気に入られ北伐に従い、魏との戦いで活躍。王真を生け捕り、李鵬を討ち取り、鄧艾からも勝利を収めた。
魏軍が大挙して蜀に攻め込んできた際、部下の蔣舒と共に陽平関を守る。鍾会の軍が迫ると蔣舒は守りを固めるべきと進言するが、傅僉はこれを聞き入れずに出撃。このため蔣舒は鍾会に投降して、陽平関を明け渡すこととなる。傅僉は怒って奮戦するが力及ばず、最後は「蜀の臣として生まれたからには、死して蜀の鬼とならん」と言い、自刎して果てた。
出典
脚注
- >> 「傅僉」を含む用語の索引
- 傅僉のページへのリンク