傅肜とは? わかりやすく解説

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傅肜Fu Rong

フユウ

(?~222

義陽郡の人、傅僉の父《楊戯伝》。

章武元年二二一)七月劉備大軍催して西進し巫峡建平から夷陵に至るまで数十もの陣営連ね馮習を大督、張南前部とし、輔匡・趙融・廖化・傅肜らをそれぞれ別働隊とした。しかし馮習敵軍軽んじたため、翌年六月猇亭において陸遜大敗喫し先主劉備)が退却するとき、傅肜が殿軍となって戦った手勢あらかた死んでしまい、呉将が傅肜に降服呼びかけると、傅肜は「呉のめ、どうして漢の将軍が降るものか」と罵り、ついに戦死した楊戯陸遜伝》。

参照張南 / 趙融 / 傅僉 / 馮習 / 輔匡 / 陸遜 / 劉備 / 廖化 / 夷陵県 / 猇亭 / 漢 / 義陽郡 / 建平郡 / 呉 / 巫峡 / 前部 / 大督


傅彤

(傅肜 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/29 05:37 UTC 版)

成都武侯祠の傅肜塑像

傅 彤(ふ とう)、または傅 肜(ふ ゆう)[1]は、中国三国時代蜀漢の武将。本貫荊州義陽郡

生涯

章武元年から2年(221年-222年[2]にかけて行われた夷陵の戦いで別督[3]に任じられる。蜀軍が陸遜の火計によって大敗を喫すると[4]劉備を逃すための殿軍となる。配下の兵は死に絶え、敵将から降伏を呼びかけられた傅彤は「の狗め!の将軍に降る者がいるか!」と答えてこれを拒み、戦死に至った。

後に子の傅僉蜀漢の滅亡に殉じた。さらに後年、西晋の武帝(司馬炎)は傅彤・傅僉父子の忠義を称える詔を下している。

三国志演義

羅貫中の小説『三国志演義』では第81回から、夷陵の戦いに従軍する中軍護尉として登場[5]。第84回では呉の淳于丹の攻撃を、手ずから槍を取って撃退する。

その後は史実と同じく、敗走する劉備を逃すために殿軍となり、降伏勧告を拒否して戦死。作中の詩でその忠義は「傅彤不愧漢将軍(傅彤は漢の将軍に恥じず)」と称えられる[6]

出典

脚注

  1. ^ 華陽国志』や『三国志演義』では傅、『三国志』では傅とする。本記事中では前者で統一する。
  2. ^ 『三国志』蜀書 先主伝 s:zh:三國志/卷32
  3. ^ 個々の軍団の指揮官。ちくま学芸文庫正史 三国志 7』272頁より。
  4. ^ 『三国志』呉書 陸遜伝 s:zh:三國志/卷58
  5. ^ s:zh:三國演義/第081回
  6. ^ s:zh:三國演義/第084回


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