傅肜
(?~222) |
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章武元年(二二一)七月、劉備は大軍を催して西進し、巫峡・建平から夷陵に至るまで数十もの陣営を連ね、馮習を大督、張南を前部とし、輔匡・趙融・廖化・傅肜らをそれぞれ別働隊とした。しかし馮習は敵軍を軽んじたため、翌年六月、猇亭において陸遜に大敗を喫し、先主(劉備)が退却するとき、傅肜が殿軍となって戦った。手勢はあらかた死んでしまい、呉将が傅肜に降服を呼びかけると、傅肜は「呉の狗め、どうして漢の将軍が降るものか」と罵り、ついに戦死した《楊戯・陸遜伝》。 【参照】張南 / 趙融 / 傅僉 / 馮習 / 輔匡 / 陸遜 / 劉備 / 廖化 / 夷陵県 / 猇亭 / 漢 / 義陽郡 / 建平郡 / 呉 / 巫峡 / 前部 / 大督 |
傅彤

傅 彤(ふ とう)、または傅 肜(ふ ゆう)[1]は、中国三国時代の蜀漢の武将。本貫は荊州義陽郡。
生涯
章武元年から2年(221年-222年)[2]にかけて行われた夷陵の戦いで別督[3]に任じられる。蜀軍が陸遜の火計によって大敗を喫すると[4]、劉備を逃すための殿軍となる。配下の兵は死に絶え、敵将から降伏を呼びかけられた傅彤は「呉の狗め!漢の将軍に降る者がいるか!」と答えてこれを拒み、戦死に至った。
後に子の傅僉も蜀漢の滅亡に殉じた。さらに後年、西晋の武帝(司馬炎)は傅彤・傅僉父子の忠義を称える詔を下している。
三国志演義
羅貫中の小説『三国志演義』では第81回から、夷陵の戦いに従軍する中軍護尉として登場[5]。第84回では呉の淳于丹の攻撃を、手ずから槍を取って撃退する。
その後は史実と同じく、敗走する劉備を逃すために殿軍となり、降伏勧告を拒否して戦死。作中の詩でその忠義は「傅彤不愧漢将軍(傅彤は漢の将軍に恥じず)」と称えられる[6]。
出典
- 陳寿撰、裴松之注『三国志』蜀書 楊戯伝 s:zh:三國志/卷45#季漢輔臣贊
脚注
- ^ 『華陽国志』や『三国志演義』では傅彤、『三国志』では傅肜とする。本記事中では前者で統一する。
- ^ 『三国志』蜀書 先主伝 s:zh:三國志/卷32
- ^ 個々の軍団の指揮官。ちくま学芸文庫『正史 三国志 7』272頁より。
- ^ 『三国志』呉書 陸遜伝 s:zh:三國志/卷58
- ^ s:zh:三國演義/第081回
- ^ s:zh:三國演義/第084回
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