唐・宋
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唐代になると科挙制度が整備され学問さえ修めれば誰もが官僚になれる機会が与えられたため、士人は貴族的な特権階級ではなくなった。たとえば新興の地主層などからも士人が生まれ、多くの者が科挙に及第し官僚となった。このような科挙制度による官僚化が進んだこの時代の文人を特に官僚文人ともいう。この社会情勢の変化の中、唐代を過渡期として宋代以降になると文人は公的な官僚生活と私的な文人生活の二面性を有するようになる。平たくいえばサラリーマン的な生活スタイルを身につけたということになる。官僚としてはしっかりと経世済民(世を治め民を救う)の義務を果たし、私生活においては文人として趣味の生活を堪能する。この趣味生活が文学を中心に書画や音楽など芸術全般に広がり、文人の余技となっていった。文人のアマチュアリズムとはこのように余技として行ったことを起点としており、生活の糧のため(職業)とされることを「俗」であるとして極端に嫌う風潮が生じた。六朝時代に芽生えた雅俗認識がより峻厳に研ぎ澄まされ、成熟したからともいえる。もちろん文芸・芸術の領域においても「雅」を追究し風流であることに重きを置くようになった。 中唐の詩人 白居易は最初の自覚的文人とされ、北宋の蘇軾や南宋の陸游などがこれに続いた。また盛唐の詩人にして文人画の祖とされる王維、宋代西湖のほとりで梅を植え鶴を飼って隠棲した林和靖など典型的な文人像が形成されていった。南宋の頃になると全人的な文人観が一般にも広く認識されるようになる。一方で文人への批判もなされ、蘇軾と同時代の劉摯は「文人と称されたのでは士人として失格である」という趣旨の教訓を子孫に遺している。また朱熹も文人が思慮を欠いているとして痛烈に批判している。ともあれ、文人が社会に定着しなんらかの影響力を持ち始めた証左でもある。
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唐・宋
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唐・宋では科挙によって人材登用が行われ、そのうち進士科を受験する者を挙人といった。ベトナムでも同様に省レベルの試験合格者がこう呼ばれた。
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