唐宋期の荘園
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 06:18 UTC 版)
中唐以後均田制が崩壊すると、宮廷や貴族、武人、地方の豪族などが個人で田畠を財産として私有する風潮が強まり、各地で荘田・荘園が形成されるようになる。五代には貴族層が没落し、宋初には科挙制度が整備される一方で武人の勢力が抑圧されるようになったために、地方の豪族から官僚が生み出され、その庇護によって当人及び一族の荘園が発展するという構図が描かれるようになった。荘園を構成する田畠は主に皇帝よりの恩賜地や墾田、質入や買入による購入、寄進、更には暴力を伴う強奪などの手法によって獲得されたものも含まれていた。そのため、地域一円を荘園化して山や川などの自然物をもって境界とした荘園や分散した土地を合わせて1つの荘園として扱う場合など様々な形態が存在し、中には数路にわたって多数の荘園を有する者も存在した。唐や宋の荘園には不輸不入の特権は存在しなかったものの、皇帝からの恩賜地は租税を減免され、官僚所有の荘園には免役特権が存在したため、農民が重い税負担から逃れるために荘園を官僚に寄進する例も見られた。更にこれを見た非官僚の荘園所有者も政府や官僚との個人的つながりを通じて本来は免れ得ない租税の納付を回避しようとする者もいた。その結果、中央財政にも影響を与えるようになり、宋王朝では乾興元年(1022年)に官僚荘園を30頃、将吏衙前荘園を15頃に制限する提案が出されたものの失敗し、その後限田免役法を行って免役の範囲や寄進に制約を課そうとしている。もっとも、宮廷や官庁自身も荘園の一大所有者であり、宮廷に属する荘園(唐の内荘宅使、宋の御荘)や軍事的要所の周囲にて兵糧確保のために開墾・屯田によって形成された営田官荘および屯田軍荘、その他民間から没収して没官田の官荘なども存在していた。
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