唐室李氏の出自
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「李淵#李淵の出自に関する論争」も参照 唐王朝の李淵が出た唐室李氏は,唐高祖李淵の由来について、昔の歴史によると、彼は隴西李氏、李嵩、西良王の七番目の孫で、李歆、李重耳、李熙、李天錫、李虎、李淵。 しかし、最近の陳寅恪テストでは、彼の祖先は趙県李であることが判明した。 その証拠に、河北省隆平縣の領土である趙県では、李熙、李天錫、李虎の墓が広葉の寺碑とともに発見されている。 墓の仕様は古い漢のシステムに準拠しており、寺院の碑文には「維王桑梓」という言葉が含まれており、これが彼らの故郷であることを証明している。 したがって、李家の先祖は漢民族であることは間違いと思われる。 女系 唐室李氏の高祖・太宗・高宗三代の母はすべて鮮卑系の異民族である。例えば、唐朝の名臣として名高い長孫無忌は鮮卑の拓跋出身であり、その妹が太宗の皇后であり、高宗の母である。女系が鮮卑の血統であることは池田温、桂小蘭、加藤徹、伊達宗義、梅原猛など日本学界では広く認めらている。中国学界でも陳寅恪は、「唐の皇室は、唐朝創業期と初期の君主について女系からみてみると、高祖の母が独孤氏であり、太宗の母は竇氏すなわち紇豆陵氏であり、そして高宗の母は長孫氏であり、いずれも『胡種』であって『漢族』ではない。だから、唐の皇室は、女系からいえば『胡族』と混血していることは周知の事であり、くわしく述べる必要はない」と述べている。陳寅恪の主張は銭穆や薩孟武(中国語版)(国立台湾大学)などが支持している。繆鳳林(中国語版)(南京大学)は、唐室李氏は胡漢混血であると主張したが、岑仲勉(中国語版)(中山大学)は唐室李氏と鮮卑の通婚事例を挙げながら、血統の混血は古来からよくあることで論じるに値しないと述べている。 男系 ただし、問題は男系である。公式の歴史 『旧唐書』『新唐書』によれば、唐室李氏は漢人の名門貴族の隴西李氏といわれ、李耳(老子)の子孫と称し、唐代で編まれた『晋書』で特筆大書されている西涼の初代王李暠をその遠祖としている。西魏末年、鮮卑国粋主義の風潮に従って、唐室李氏は西魏より大野(だいや)という鮮卑姓を与えられ、一時的にこの姓を名乗ることになる。 隋の文帝は天下統一のための仏教復興政策をとったが、唐王朝は道教の祖師とされる老子が李姓であるところから、老子を唐王室の祖先として尊崇するところとなり、道士の傅奕は、隋文帝以来の宗教政策を変更するよう高祖に迫った。一方、護法僧法琳(中国語版)は隋文帝の宗教政策を踏襲するよう求めた。道教と仏教の論戦は続くが、639年に道士の秦世英が、法琳が著した『弁正論』に皇室を謗り、皇帝の祖先である老子を貶す箇所があると、太宗に讒言した。『弁正論』を読んだ太宗は、「欺君之罪」(不敬罪)にあたる箇所がいくつもあったことから法琳を詰問した。その対話のなかで法琳は、太宗の面前で「拓跋達闍が唐のいう李氏です。陛下の李氏は、その子孫です。隴西の李氏ではありません」とその出自の非なることを献言し、さらに、唐室李氏の血筋は実はもっと尊いものであると主張し、「拓跋の北魏のことをおもうに、北代神君の達闍は陰山に連なる貴種だといわれています。『経書』には、金を黄銅に代えたり、絹をぼろ切れに代えるような施しをする無欲の人とあります」と献言し、自分の証言や文章に対して非常に自信を持っており、「『弁正論』は、歴史事実と一致するよう記述しており、矛盾があれば責任を取ります」として、すべての責任は自分にあると宣言した。激怒した太宗は、「お前は、『弁正論』に、観音様を念ずる者は刃に臨んでも傷をつけずと書いた。今、お前を死刑に処す。ただし、七日の猶予をあたえよう。七日間観音様を称えてみよ。七日の後、処刑する。その時お前の身をもって刃を試してみよう。お前が書いたものが真実かどうか証明されるだろう」と言って、法琳を監獄に入れた。七日後、処刑前に、太宗に「観音様を唱えたか」と聞かれた法琳は、「七日の間、ひたすら陛下だけを念じました」と答えた。「なぜか」と聞かれた法琳は太宗の威徳を讃え、「陛下の高徳は菩薩と同じ、すなわち観音様です」と言い、その法琳の話を聞き、太宗は死刑から益州への流罪に変更し、法琳は流罪地に行く道中において死去した。法琳に関する基本的な資料を提供しているのは、彦悰が著した『法琳別伝』であるが、この書は唐代では禁書とされており、唐王室の出自が隴西の李氏ではなく、拓跋の後裔であることを直書していたことが理由とみられる。劉盼遂(北京師範大学)は、法琳が唐室李氏が拓跋の出自であることの確実かつ信頼できる証拠をもっていなければ、皇帝の面前でこのような「暴言」を吐くことはないだろう、と指摘している。陳俊偉(国立台湾大学)は、太宗は心のなかでは法琳が正しいこと、法琳は「知られざる真実」を語っていることを理解していたから、その場で殺さなかったのだろう、と指摘している。 古くは、南宋の儒学者朱熹は『朱子語類』において、「唐の皇室は夷狄の出身である。だから宮中において礼節を失うことは、不思議なことではない」と述べている。元初の儒学者、霊宝派(中国語版)閣皁宗(中国語版)道士の鄭思肖(中国語版)は『心史(中国語版)』において、「唐の皇室は武昭王李暠の七世の孫と『晋書』で称しているが、実際は夷狄の子孫である」と述べている。明代の文学者楊慎は『升庵集』において、「唐の皇室は夷狄である。中国人ではない」と述べている。 1930年代になると、馮承鈞(中国語版)(北京大学)が李淵の祖父の李虎の兄の名が「李起頭(中国語版)」、弟の名が「李乞豆(中国語版)」、「李起頭(中国語版)」の息子の名が「李達摩」というおよそ漢人とは考えられない胡族名であることから唐室李氏は出自を詐称しており、実際は唐室李氏の男系は胡族ではないのかと主張し、1930年代に中国学界において唐室李氏の出自をめぐる大論争が起きた。劉盼遂(北京師範大学)と王桐齢(清華大学)は、唐室李氏の男系は拓跋であると主張した。一方、唐代史の権威である陳寅恪は、唐室李氏の男系が漢人であることを主張する論文を4本以上執筆した。陳寅恪は生前は教育者として尊敬され、死後はカルト的人気を誇る歴史家となったため、陳寅恪の研究に対する批判は聞かれず、陳寅恪の弟子である劉盼遂は、唐室李氏がもつ数多の「胡族的特徴」に関する先駆的かつ刺激的な研究を突如終了し、唐室李氏の男系は拓跋であるという自らの主張を取り下げた。しかし、その後も向達(中国語版)(北京大学)、陳三平、孟二冬(中国語版)(北京大学)、銭仲聯(中国語版)(蘇州大学(中国語版))などが唐室李氏の男系鮮卑説を主張するなど中国学界では議論が続いている。 陳寅恪は、『唐代政治史述論稿(中国語版)』において、鮮卑系の関隴集団(=武川鎮軍閥)に属する趙郡の李氏が、(鮮卑化した漢人とする)唐室李氏の出自であると主張した。唐室李氏は隴西の李氏を称し、隴西から中原への移住を、西涼滅亡時に李重耳(中国語版)が南朝宋へ逃亡したことに求めており、その後、北魏の侵攻に際し、李重耳は北魏に寝返ったが、再度宋に捕らえられたといい、李重耳の子の李熙(中国語版)が北魏の金門(皇帝の宮殿)を守る軍将であり、李熙が武川へ移住し、李淵へ繋がる系譜が描かれている。陳寅恪は、唐室李氏の出自を追い求め、『新唐書宗室世系表(中国語版)』をもとに検証し、『宋書』『魏書』などを博捜し、李重耳と李熙に相当する李姓の父子を探し出し、李初古抜(中国語版)と李買得という人物を特定する。李初古抜と李買得の事績と『新唐書宗室世系表』の事蹟には異同があるが、整合的に解釈することで同一人物と比定し、李熙と子の李天錫(中国語版)の墓が、河北の趙州に置かれていることに注目し、趙郡の李氏のある没落した家系が住んでいた場所と近接していることをつきとめ、唐室李氏が趙郡の李氏の没落した家系に連なるか、あるいは趙郡の李氏を仮託したと結論付けた。姚薇元(武漢大学)は陳寅恪の主張に同意し、唐室李氏が異民族であるという学説は根拠がない主張ではないが、結局、実証的な証拠に欠けると主張した。ただし石見清裕によると、陳寅恪は1931年発表の「李唐氏族之推測」では、唐室李氏の祖先を非漢人の出自とするが、1933年発表の「李唐氏族之推測後記」において主張が大転換し、趙郡の李氏と主張するようになったといい、石見清裕は、その背景には1930年代初頭の日本軍による中国侵略が背景にあったと指摘している。陳三平は、陳寅恪の研究は、日本が中国に対する軍事的脅威を増大させ、中国領を侵犯はじめた時期であり、中国では古今東西の異民族支配に対して敏感になっていた時期にあたり、さらに、陳寅恪は清末の貴族出身であり、留学経験は豊富だが、民族主義的傾向が強い家柄であり、陳寅恪の父親は、1937年に日本軍の中国侵略に抗議するため、絶食、医薬品の提供を拒否して憤死しており、陳寅恪の研究に影響を与えていることは明らかであると指摘している。 日本学界では、唐室李氏の系譜は西涼の李氏とは繋がっておらず、唐室李氏は鮮卑であるとする考え方が定説となっており、布目潮渢、古松崇志、向井佑介、楊海英、宮脇淳子、岡田英弘、佐藤智水、稲畑耕一郎、渡邉義浩、田中英道、越野明、塚本靑史、村山秀太郎、古田博司、会田大輔、堀井裕之、片山剛、宇山卓栄、斉藤茂雄、吉田一彦などが鮮卑説を支持している。 森安孝夫は、「唐を拓跋国家とみなす学説は、日本の学界、さらに中国や欧米の学界では、どの程度認知されているのか」という質問に対して、「唐の王族李氏が拓跋出身であることを認めない者は、もはや世界中のどこにもいません」と回答している。 公式の史料では、北魏孝文帝のとき、漢化政策にのっとって帝室の拓跋氏(虜姓)を元氏(漢姓)に改姓したなどとは逆に、西魏末年、鮮卑国粋主義の波にのって漢姓を虜姓に改姓(虜姓再行)させると同時に、漢人にも虜姓を賜与された結果、隴西李氏(漢姓)といっている唐室李氏に大野姓(虜姓)を賜っている。しかし、八人の柱国大将軍とその下の十二人の大将軍から構成された西魏常備軍の八柱国・十二大将軍家は、李虎(李淵の祖父)、李弼(隋末反乱期の英雄李密の曾祖父)、楊忠(隋文帝の父)を除いては鮮卑系であり、八柱国・十二大将軍家は、本来すべて鮮卑系であるが、上記の三氏、とくに隋室楊氏、唐室李氏は、漢人に君臨する皇帝となったために、後世、本来漢人であったように系譜を偽作したのではないかと疑われる。 李淵の祖父の李虎は西魏時代に大野氏の鮮卑姓を授けられているが、これが賜姓なのか、実際には復姓であったのかについては議論がある。馮承鈞(中国語版)(北京大学)、王桐齢(清華大学)、朴漢濟(朝鮮語: 박한제、ソウル大学)などは本来の姓が鮮卑姓大野氏であり、復姓したと主張している。一方、阎步克(中国語版)(北京大学)など中国学界における通説は、賜姓という立場である。しかし、卓鴻澤(中央研究院歴史語言研究所)は、そうではなくて鮮卑姓大野が本来の姓であり、唐室李氏が老子の子孫を自称し、道教を優遇したのは鮮卑のシャーマニズムと関係があることを文献学的に考証している。シンガポールの学者、Shao-yun Yang(デニソン大学)は、「文献学的に裏付けている」「李虎は元々鮮卑姓だったこと、高祖が老子を祖先としたのは鮮卑の信仰と関係があることを文献学的手法で論証した」と評している。 北朝から隋・唐時代の人々は郡望(中国語版)を競って示したが、胡族はその出自や本姓を隠し、中国における著名人の後裔を騙って漢人と婚姻を結び、漢人の祖先の系譜を利用し、胡族の本姓を変えて出自を隠し、同姓の者は名門世族の権威にすがって庇護を受けることは珍しいことではなく、馬馳(陝西師範大学)は、「蕃人は漢化の際、郡望(中国語版)・族望(家柄)を改竄し、蕃姓蕃名を変更しなければならない」と述べている。 厳耕望(中国語版)(香港中文大学)は、唐代に高宗が蘇敬(中国語版)らに書かせた『新修本草(中国語版)』のなかに、唐室李氏が胡族の血統であることをほのめかす記事があることを紹介している。 劉学銚(中国文化大学)は、唐代に編まれた『晋書』において、唐室李氏が突如として李暠の血統であると成文化し、李暠の子孫を主張したため、1000年以上も前から中国の民間社会では、唐室李氏は出自を詐称しており、実際は胡族ではないのかという疑惑は公然たる事実として語られていた、と指摘しており、李淵の祖父の李虎が大野氏という胡姓を保有しており、高車の部族に大野氏がいることから、唐室李氏は胡族の出自であることが濃厚であると主張している。中国のモンゴル族の学者である蘇日巴達拉哈も唐室李氏は高車の出自と主張している。 劉志強(上海師範大学)は、唐室李氏が漢人の名門貴族の隴西李氏という出自にこだわっていること自体が出自の確認を難しくさせており、太宗は門閥の序列を定めるため、『貞観氏族志(中国語版)』の編纂を命じたが、皇室を差し置いて山東貴族の崔民幹(中国語版)を第一等とし、激怒した太宗は、編纂を担当した高士廉に命じて修正させ、唐皇室を首位に据えさせ、崔民幹(中国語版)を第三等に降格させるなど政治力を行使して門閥の序列に干渉しており、唐室李氏の出自に関しても政治力を行使している可能性は高く、胡族文化の武川鎮軍閥王朝の西魏・北周でさえ、『周礼』を手本に周の官制を実施し、儒教的な六條問事(中国語版)を策定し、『書経』を模倣した『大誥』を公布し、皇帝と大臣たちは漢の衣冠を用い、太和以降、鮮卑の漢化が徐々に深化する傾向にあり、それは不可逆的な歴史の流れとなり、隋と唐は中国統一後、中国の正統性の継承を標榜したのも、唐室李氏が漢人の名門貴族の隴西李氏という出自にこだわったのも、これらの漢化の流れに従ったものであると指摘している。 黄大受(国立台湾大学)のように、唐室李氏の出自について諸説紹介するにとどめて具体的に出自を断定しない学者も多い。 近年の日本学界は、隋・唐を「鮮卑系王朝」とみなして、北アジアに由来する「遊牧的要素」が政権の性格にどのような影響を与えたのかという側面に注目が集まっており、唐皇帝を鮮卑系北方遊牧民族の系譜に位置づけて、「中国皇帝」としてのみならず、「タヴガチ可汗」(「タヴガチ可汗 Tavγač Qayan」とは、古チュルク語の突厥碑文で隋・唐を含む北朝鮮卑系諸皇帝を呼ぶ名称であり、「拓跋」から転訛した表現とされる}})としてとらえ、特に「天可汗(中国語版)」(森安孝夫によると、「天可汗」は「拓跋可汗」の音訳である)を名乗った太宗を中央ユーラシアの視点から見直すことが提唱されており、杉山正明、古松崇志、鈴木宏節、渡辺信一郎、森安孝夫などは北魏にはじまる北朝から隋・唐の諸王朝を「拓跋国家」と呼んでいる。 陳三平は、唐の支配層は鮮卑拓跋出身の遊牧民であり、実際に遊牧民のアイデンティティを失っておらず、安史の乱以前の唐王朝は「本土王朝」というよりも、「鮮卑 - 華夏」政権と呼ぶのが適切と指摘している。 林恵祥(中国語版)(厦門大学)は、唐室李氏は、西涼李暠に由来する純粋な漢人を称しているが、現代の歴史家は異民族の出自であることを疑っており、唐王朝の君主は純粋な漢人ではなく、臣下・官吏の多くは異民族であり、使用する兵士もほとんどが異民族であり、唐王朝は、華夷の混合国家であり、純粋な漢人の時代とみることはできず、その文化も異民族の習俗と混ざり合っている(例えば、太宗が弟(李元吉)の妻(楊氏(中国語版))を娶り、玄宗が息子(李瑁)の妻(楊貴妃)を娶り、武則天が女帝になるなど、漢人の慣例とは異なり、胡族の習俗の影響を受けている)。しかし、それでも名目上、華夏を自任していることをみると、漢人の要素が他の民族の要素よりも重要であり、唐の主軸としての地位を失わなかったことを知ることができる、と主張している。 2017年度から使用されている清水書院発行の歴史教科書『高等学校 世界史A』は、「618年、農民反乱を機に挙兵した鮮卑系の李淵(高祖)と李世民(太宗)の父子が、唐を建国」と書かれている。 2020年度から使用されている香港導師出版社有限公司発行の香港の中学で使用されている歴史教科書『中國歷史新世界』は、「北魏から興った唐の皇室は鮮卑出身で、北朝の文化・風習を受け継いでいる。胡族の婚姻関係は比較的原始的である」と書かれている。 台湾では、唐は実は鮮卑が建国した帝国だったということは、少しは歴史を知っている人なら、誰もが知っている話だという指摘がある。 近年、「隋室楊氏と唐室李氏は、鮮卑であったが、漢人に君臨する皇帝となったために、後世、本来漢人であったように系譜を偽作したのだ」と主張する日本人論客が少なくないが、一般的にはあくまで皇后や血縁に鮮卑族の女性がいたという認識が学界の定説である。
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