唐室李氏の出自とは? わかりやすく解説

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唐室李氏の出自

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 15:58 UTC 版)

「唐」の記事における「唐室李氏の出自」の解説

李淵#李淵出自に関する論争」も参照 唐王朝李淵出た唐室李氏は,唐高祖李淵由来について、昔の歴史によると、彼は隴西李氏李嵩、西良王の七番目の孫で、李歆重耳熙、天錫、李虎李淵。 しかし、最近陳寅恪テストでは、彼の祖先趙県であることが判明した。 その証拠に、河北省隆平縣領土である趙県では、熙、天錫、李虎の墓が広葉の寺碑とともに発見されている。 墓の仕様は古い漢のシステム準拠しており、寺院碑文には「維王桑」という言葉含まれており、これが彼らの故郷であることを証明している。 したがって李家先祖漢民族であることは間違い思われる女系 唐室李氏高祖太宗高宗三代の母はすべて鮮卑系の異民族である。例えば、唐朝名臣として名高い長孫無忌鮮卑拓跋出身であり、その妹が太宗皇后であり、高宗の母である。女系鮮卑血統であることは池田温小蘭加藤徹伊達宗義梅原猛など日本学界では広く認めらている。中国学界でも陳寅恪は、「唐の皇室は、唐朝創業期初期君主について女系からみてみると、高祖の母が独孤氏であり、太宗の母は竇氏すなわち紇豆陵氏であり、そして高宗の母は長孫氏であり、いずれも『胡種』であって漢族』ではない。だから、唐の皇室は、女系からいえば『胡族』と混血していることは周知の事であり、くわしく述べる必要はない」と述べている。陳寅恪主張銭穆や薩孟武(中国語版)(国立台湾大学)などが支持している。繆鳳林中国語版)(南京大学)は、唐室李氏は胡漢混血であると主張したが、岑仲勉(中国語版)(中山大学)は唐室李氏鮮卑通婚事例挙げながら、血統混血古来からよくあることで論じるに値しない述べている。 男系 ただし、問題男系である。公式の歴史 『旧唐書』『新唐書』によれば、唐室李氏漢人名門貴族隴西李氏といわれ、李耳老子の子孫と称し唐代編まれ『晋書』特筆大書されている西涼初代李暠をその遠祖としている。西魏末年鮮卑国粋主義風潮に従って、唐室李氏西魏より大野(だいや)という鮮卑姓を与えられ一時的にこの姓を名乗ることになる。 隋の文帝天下統一のための仏教復興政策をとったが、唐王朝道教祖師とされる老子姓であるところから老子唐王室の祖先として尊崇するところとなり、道士傅奕は、隋文帝以来宗教政策変更するよう高祖迫った一方護法法琳中国語版)は隋文帝宗教政策踏襲するよう求めた道教と仏教論戦は続くが、639年道士の秦世英が、法琳著した弁正論』に皇室謗り皇帝祖先である老子貶す箇所があると、太宗讒言した。『弁正論』を読んだ太宗は、「欺君之罪」(不敬罪)にあたる箇所いくつもあったことから法琳詰問した。その対話のなかで法琳は、太宗面前で「拓跋達闍が唐のいう李氏です。陛下李氏は、その子孫です。隴西李氏ではありません」とその出自の非なることを献言し、さらに、唐室李氏血筋は実はもっと尊いのである主張し、「拓跋北魏のことをおもうに北代神君の達闍は陰山連なる貴種だといわれています。経書』には、金を黄銅代えたり、絹をぼろ切れ代えるような施しをする無欲の人とあります」と献言し、自分証言文章に対して非常に自信持っており、「『弁正論』は、歴史事実一致するよう記述しており、矛盾があれば責任取ります」として、すべての責任自分にあると宣言した激怒した太宗は、「お前は、『弁正論』に、観音様念ずる者は刃に臨んでも傷をつけずと書いた。今、お前を死刑処す。ただし、七日猶予をあたえよう七日観音様称えてみよ。七日の後、処刑するその時お前の身をもって刃を試してみよう。お前が書いたものが真実かどうか証明されるだろう」と言って法琳監獄入れた七日後、処刑前に太宗に「観音様唱えたか」と聞かれ法琳は、「七日の間、ひたすら陛下だけを念じました」と答えた。「なぜか」と聞かれ法琳太宗威徳を讃え、「陛下高徳菩薩と同じ、すなわち観音様です」と言い、その法琳の話を聞き太宗死刑から益州への流罪変更し法琳流罪地に行く道中において死去した法琳に関する基本的な資料提供しているのは、彦悰が著した法琳別伝』であるが、この書は唐代では禁書とされており、唐王室の出自隴西李氏ではなく拓跋後裔であることを直書していたことが理由とみられる。劉盼遂(北京師範大学)は、法琳が唐室李氏拓跋出自であることの確実かつ信頼できる証拠をもってなければ皇帝面前このような暴言」を吐くことはないだろう、と指摘している。陳俊偉(国立台湾大学)は、太宗は心のなかでは法琳正しいこと、法琳は「知られざる真実」を語っていることを理解していたから、その場で殺さなかったのだろう、と指摘している。 古くは、南宋儒学者朱熹『朱子語類』において、「唐の皇室夷狄出身である。だから宮中において礼節を失うことは、不思議なことではない」と述べている。元初儒学者霊宝派(中国語版)閣皁宗(中国語版道士の鄭思肖(中国語版)は『心史(中国語版)』において、「唐の皇室武昭王李暠七世の孫『晋書』称しているが、実際夷狄の子孫である」と述べている。明代文学者楊慎は『升庵集』において、「唐の皇室夷狄である。中国人ではない」と述べている。 1930年代になると、馮承鈞(中国語版)(北京大学)が李淵祖父李虎の兄の名が「起頭(中国語版)」、弟の名が「乞豆(中国語版)」、「起頭(中国語版)」の息子の名が「達摩」というおよそ漢人とは考えられない胡族名であることから唐室李氏出自詐称しており、実際は唐室李氏男系は胡族ではないのかと主張し1930年代中国学界において唐室李氏の出自をめぐる大論争起きた。劉盼遂(北京師範大学)と王齢(清華大学)は、唐室李氏男系拓跋であると主張した一方唐代史の権威である陳寅恪は、唐室李氏男系漢人であることを主張する論文を4本以上執筆した陳寅恪生前教育者として尊敬され死後カルト的人気を誇る歴史家となったため、陳寅恪研究対す批判聞かれず、陳寅恪弟子である劉盼遂は、唐室李氏がもつ数多の「胡族的特徴に関する先駆的かつ刺激的な研究突如終了し、唐室李氏男系拓跋であるという自らの主張取り下げた。しかし、その後も向達(中国語版)(北京大学)、陳三平、孟二冬(中国語版)(北京大学)、銭仲聯(中国語版)(蘇州大学中国語版))などが唐室李氏男系鮮卑説を主張するなど中国学界では議論続いている。 陳寅恪は、『唐代政治史論稿中国語版)』において、鮮卑系の関隴集団(=武川鎮軍閥)に属す趙郡李氏が、(鮮卑化した漢人とする)唐室李氏の出自であると主張した。唐室李氏隴西李氏称し隴西から中原への移住を、西涼滅亡時に重耳中国語版)が南朝宋逃亡したことに求めており、その後北魏侵攻際し重耳北魏寝返ったが、再度宋に捕らえられたといい、重耳の子熙(中国語版)が北魏金門皇帝宮殿)を守る軍将であり、熙が武川移住し李淵へ繋がる系譜描かれている。陳寅恪は、唐室李氏の出自を追い求め、『新唐書宗室世系表(中国語版)』をもとに検証し『宋書』魏書』などを博捜し、重耳熙に相当する姓の父子探し出し初古抜(中国語版)と買得という人物特定する初古抜と買得事績と『新唐書宗室世系表』の事蹟には異同があるが、整合的に解釈することで同一人物比定し、熙と子の天錫(中国語版)の墓が、河北趙州置かれていることに注目し趙郡李氏のある没落した家系住んでいた場所と近接していることをつきとめ、唐室李氏趙郡李氏没落した家系連なるか、あるいは趙郡李氏仮託したと結論付けた。姚元(武漢大学)は陳寅恪主張同意し、唐室李氏異民族であるという学説根拠がない主張ではないが、結局実証的な証拠欠けると主張した。ただし石見清裕によると、陳寅恪1931年発表の「李唐氏族推測」では、唐室李氏祖先を非漢人出自とするが、1933年発表の「李唐氏族推測後記」において主張大転換し、趙郡李氏主張するようになったといい、石見清裕は、その背景には1930年代初頭日本軍による中国侵略背景にあった指摘している。陳三平は、陳寅恪研究は、日本中国対す軍事的脅威増大させ、中国領を侵犯はじめた時期であり、中国では古今東西異民族支配に対して敏感になっていた時期にあたり、さらに、陳寅恪清末貴族出身であり、留学経験豊富だが、民族主義的傾向が強い家柄であり、陳寅恪父親は、1937年日本軍中国侵略抗議するため、絶食医薬品の提供を拒否して憤死しており、陳寅恪研究影響与えていることは明らかであると指摘している。 日本学界では、唐室李氏系譜西涼李氏とは繋がっておらず、唐室李氏鮮卑であるとする考え方定説となっており、布目潮渢古松崇志向井佑介楊海英宮脇淳子岡田英弘佐藤智稲畑耕一郎渡邉義浩田中英道越野明、塚本靑史村山秀太郎古田博司会田大輔堀井裕之、片山剛宇山卓栄斉藤茂雄吉田一彦などが鮮卑説を支持している。 森安孝夫は、「唐を拓跋国家とみなす学説は、日本学界、さらに中国欧米学界では、どの程度認知されているのか」という質問に対して、「唐の王族李氏拓跋出身であることを認めない者は、もはや世界中のどこにもいません」と回答している。 公式の史料では、北魏孝文帝のとき、漢化政策のっとって帝室拓跋氏姓)を元氏漢姓)に改姓したなどとは逆に西魏末年鮮卑国粋主義の波にのって漢姓姓に改姓姓再行)させると同時に漢人にも姓を賜与された結果隴西李氏漢姓といっている唐室李氏大野姓(姓)を賜っている。しかし、八人柱国大将軍とその下の十二人の大将軍から構成され西魏常備軍八柱国十二大将軍家は、李虎李淵祖父)、李弼(隋末反乱期英雄李密曾祖父)、楊忠隋文帝の父)を除いて鮮卑系であり、八柱国十二大将軍家は、本来すべて鮮卑系であるが、上記の三氏、とくに隋室楊氏、唐室李氏は、漢人君臨する皇帝となったために、後世、本来漢人であったように系譜偽作したのではないか疑われる李淵祖父李虎西魏時代大野氏鮮卑姓を授けられているが、これが賜姓なのか、実際に復姓であったのかについては議論がある。馮承鈞(中国語版)(北京大学)、王齢(清華大学)、朴漢濟朝鮮語: 박한제、ソウル大学)などは本来の姓が鮮卑大野氏であり、復姓したと主張している。一方、阎步克(中国語版)(北京大学)など中国学界における通説は、賜姓という立場である。しかし、卓澤(中央研究院歴史語言研究所)は、そうではなくて鮮卑大野が本来の姓であり、唐室李氏老子の子孫を自称し道教優遇したのは鮮卑シャーマニズムと関係があることを文献学的に考証している。シンガポール学者、Shao-yun Yangデニソン大学)は、「文献学的に裏付けている」「李虎は元々鮮卑姓だったこと、高祖老子祖先としたのは鮮卑信仰と関係があることを文献学的手法論証した」と評している。 北朝から隋・唐時代人々郡望中国語版)を競って示したが、胡族はその出自本姓隠し中国における著名人後裔騙って漢人婚姻を結び、漢人祖先系譜利用し、胡族の本姓変えて出自隠し同姓の者は名門世族権威すがって庇護を受けることは珍しいことではなく馬馳陝西師範大学)は、「蕃人漢化の際、郡望中国語版)・族望家柄)を改竄し名を変更しなければならない」と述べている。 厳耕望(中国語版)(香港中文大学)は、唐代高宗敬(中国語版)らに書かせた『新修本草中国語版)』のなかに、唐室李氏が胡族の血統であることをほのめかす記事があることを紹介している。 劉学銚(中国文化大学)は、唐代編まれ『晋書』において、唐室李氏突如として李暠血統であると成文化し李暠の子孫を主張したため、1000年以上も前から中国民間社会では、唐室李氏出自詐称しており、実際は胡族ではないのかという疑惑公然たる事実として語られていた、と指摘しており、李淵祖父李虎大野氏という胡姓を保有しており、高車部族大野氏がいることから、唐室李氏は胡族の出自であることが濃厚であると主張している。中国モンゴル族学者である日巴達拉哈も唐室李氏高車出自主張している。 劉志強(上海師範大学)は、唐室李氏漢人名門貴族隴西李氏という出自こだわっていること自体出自確認難しくさせており、太宗門閥序列定めるため、『貞観氏族志(中国語版)』の編纂命じたが、皇室差し置いて山東貴族崔民幹中国語版)を第一等とし、激怒した太宗は、編纂担当した高士廉命じて修正させ、唐皇室首位据えさせ、崔民幹中国語版)を第三等に降格させるなど政治力行使して門閥序列干渉しており、唐室李氏の出自に関して政治力行使している可能性高く、胡族文化武川鎮軍閥王朝西魏北周でさえ、『周礼』を手本に周の官制実施し儒教的六條問事(中国語版)を策定し『書経』模倣した『大誥』を公布し皇帝大臣たちは漢の衣冠用い太和以降鮮卑漢化徐々に深化する傾向にあり、それは不可逆的な歴史の流れとなり、隋と唐中国統一後、中国正統性継承標榜したのも、唐室李氏漢人名門貴族隴西李氏という出自こだわったのも、これらの漢化流れ従ったのである指摘している。 黄大受国立台湾大学)のように、唐室李氏の出自について諸説紹介するとどめて具体的に出自断定しない学者も多い。 近年日本学界は、隋・唐を「鮮卑王朝」とみなして北アジア由来する遊牧的要素」が政権性格どのような影響与えたのかという側面注目集まっており、唐皇帝鮮卑北方遊牧民族系譜位置づけて、「中国皇帝としてのみならず、「タヴガチ可汗」(「タヴガチ可汗 Tavγač Qayan」とは、古チュルク語突厥碑文隋・唐を含む北朝鮮卑系諸皇帝を呼ぶ名称であり、「拓跋」から転訛した表現とされる}})としてとらえ、特に「天可汗中国語版)」(森安孝夫によると、「天可汗」は「拓跋可汗」の音訳である)を名乗った太宗中央ユーラシア視点から見直すことが提唱されており、杉山正明古松崇志鈴木宏節、渡辺信一郎森安孝夫などは北魏にはじまる北朝から隋・唐諸王朝を「拓跋国家」と呼んでいる。 陳三平は、唐の支配層鮮卑拓跋出身遊牧民であり、実際に遊牧民アイデンティティ失っておらず、安史の乱以前唐王朝は「本土王朝」というよりも、「鮮卑 - 華夏政権と呼ぶのが適切と指摘している。 恵祥(中国語版)(厦門大学)は、唐室李氏は、西涼李暠由来する純粋な漢人称しているが、現代の歴史家は異民族出自であることを疑っており、唐王朝君主純粋な漢人ではなく臣下官吏多く異民族であり、使用する兵士もほとんどが異民族であり、唐王朝は、華夷混合国家であり、純粋な漢人時代とみることはできず、その文化異民族習俗混ざり合っている(例えば、太宗が弟(李元吉)の妻(楊氏中国語版))を娶り、玄宗息子李瑁)の妻(楊貴妃)を娶り、武則天女帝になるなど、漢人慣例とは異なり、胡族の習俗影響受けている)。しかし、それでも名目上華夏自任していることをみると、漢人要素が他の民族要素よりも重要であり、唐の主軸としての地位を失わなかったことを知ることができる、と主張している。 2017年度から使用されている清水書院発行の歴史教科書高等学校 世界史A』は、「618年農民反乱機に挙兵し鮮卑系の李淵高祖)と李世民太宗)の父子が、唐を建国と書かれている2020年度から使用されている香港導師出版社有限公司発行香港中学使用されている歴史教科書中國歷史新世界』は、「北魏から興った唐の皇室鮮卑出身で、北朝文化・風習受け継いでいる。胡族の婚姻関係比較原始的である」と書かれている台湾では、唐は実は鮮卑建国した帝国だったということは、少しは歴史知っている人なら、誰もが知っている話だという指摘がある。 近年、「隋室楊氏と唐室李氏は、鮮卑であったが、漢人君臨する皇帝となったために、後世、本来漢人であったように系譜偽作したのだ」と主張する日本人論客が少なくないが、一般的にはあくまで皇后血縁鮮卑族女性がいたという認識学界定説である。

※この「唐室李氏の出自」の解説は、「唐」の解説の一部です。
「唐室李氏の出自」を含む「唐」の記事については、「唐」の概要を参照ください。

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