隋・唐時代
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唐代は特に中期以降に漢詩の題材として寒食が取り上げられる機会が増え、沈佺期は嶺外には寒食がないこと、初唐期の崔融(中国語版)や盛唐期の陳潤は江南(長江南部)における寒食をそれぞれ詠みこんでおり、北方や中原だけでなく浙江省周辺まで寒食節の風習が伝わっていたとみられる。また、8世紀の開元年間に玄宗によって寒食節に墓参することが勅許され、10世紀半ばの後周では墓で紙銭を焼いていた、と19世紀に朝鮮で著された『東国歳時記』に記述されている。 日本から唐に渡った円仁は9世紀半ばの『入唐求法巡礼行記』で寒食節について触れ、開成4年(839年)の2月14日から2月16日、および翌開成5年(840年)の2月23日から2月25日の3日間は、いずれも「世間では煙を出さず、全て寒食を食べる」と記している。なお、日本には寒食節の風習がないことが18世紀の『和漢三才図会』に書かれているが、小正月のとんどは寒食節の火祭りの影響を受けているという見方がある。
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隋・唐時代
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南北朝の混乱を統一した隋は中央官制を改革し、科挙による官僚登用の制度や均田制の実施など多くの改革を積極的に推し進めた。しかし、その急激な変化に民衆の不安が増し、統一後わずか29年で後の唐の高祖李淵に滅ぼされた。唐の時代になると、西方からサーサーン朝ペルシャの文化が流入し、活気のある国際的な文化になった。日本の正倉院は、中国本土で失なわれてしまった唐文化の宝庫である。これらからは、連珠文・花喰鳥文・双獣文・狩猟文・聖樹・有翼文などペルシャ系の文様が多くみられる。また仏教とともに入ってきた唐草文のモチーフは、唐の時代には葡萄唐草・宝相華・海石榴華などに変化した。 唐三彩花文盤 唐三彩宝相華文盤 唐三彩宝相華文盤
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隋唐時代
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589年、隋代による中国統一が達成されると、煬帝は中国南北を連絡する大運河を建設した。しかしこの大規模土木事業により民衆の反発の招いた煬帝はその後江都(現揚州)で反乱軍に殺害された。行政区画としては開皇年間(581年-600年)に呉州・揚州・徐州が設置され、大業年間(605年-618年)に呉・毗陵・丹陽・江都・下邳・彭城・東海の諸郡に改編されている。 唐代には揚州・徐州が設置され、またその後は江南、淮南、河南三道に分属した。大運河と長江とが境界を接する交通の要衝であったこと、並び沿岸の港湾都市が当時活発化していた国際交流の窓口となっていたことから揚州は商業都市として発展し、「揚一益二(商業は揚州が第一で益州が第二)」と称された。 ^ “公的支援要請の中国熔盛、「大きすぎてつぶせない」のか”. Reuters (Reuters). (2013年7月8日). https://www.reuters.com/article/l4n0fe0ry-angle-china-ship-idJPTYE96705320130708 2013年7月8日閲覧。
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隋唐時代
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隋代以降、庫莫奚は単に奚と呼ばれるようになり、突厥に属しながらも隋などの中華王朝にも朝貢をした。 中国で隋に変わって唐が成立すると、奚は武徳年間(618年 - 626年)に朝貢をした。 貞観18年(644年)7月、営州都督の張倹は幽州・営州の兵および契丹と奚の兵を率いて高句麗を征伐した。この時、奚大酋の蘇支は従軍して戦功があった。 貞観22年(648年)、太宗によって北方遊牧騎馬民族がすべて唐の支配下に入れられると(羈縻政策)、奚の酋長である可度者はその所部を率いて唐に内属したので、饒楽都督府が置かれ、可度者は右領軍兼饒楽都督に任ぜられ、楼煩県公に封ぜられ、唐の国姓である李氏を賜った。また唐は、阿薈部を弱水州、処和部を祁黎州、粤失部を洛瓌州、度稽部を太魯州、万俟折部を渇野州とし、各酋領辱紇主をもって刺史とし、饒楽府に隷属させた。さらに営州に東夷都護府を置いて松漠・饒楽の地を統括させるとともに、東夷校尉を置いた。 顕慶(656年 - 661年)初め、可度者は唐より右監門大将軍を授かったが、その後亡くなったため、奚は唐に叛いた。 顕慶5年(660年)、唐は定襄都督の阿史徳枢賓、左武候将軍の延陀梯真、居延州都督の李含珠を冷陘道行軍総管とし、龍朔元年(661年)、尚書右丞の崔余慶に奚を討たせると、奚が懼れて降伏してきたので、奚王の匹帝を斬首した。 武周の万歳通天年間(696年 - 697年)、契丹が叛くと奚も叛いて東突厥(第二可汗国)に属し、両国は常に遞為表裏をなしたため、「両蕃」と号した。 景雲元年(710年)、首領の李大輔は遣使を送って朝貢したので、睿宗はこれに喜び、使者を厚くもてなした。 延和元年(712年)、左羽林将軍・検校幽州大都督の孫倹は12万の兵を率いて奚の部落を襲撃した。しかし、前軍左驍衛将軍の李楷洛らが李大輔と戦って敗れたため、李大輔は孫倹と副将の周以悌を捕えて東突厥可汗の默啜の所へ送り、殺害させた。 開元3年(715年)、李大輔は大臣の粤蘇梅落を唐へ遣わして請降したので、その地に饒楽州が置かれ、唐によって李大輔は饒楽郡王に封ぜられ、左金吾員外大将軍・饒楽州都督を拝命した。 開元5年(717年)、李大輔は契丹首領・松漠郡王の李失活と柳城の旧置営州都督府に依ることを請願し、唐の許可を得た。この年、李大輔が唐に入朝したため、玄宗は詔で従外甥の娘である辛氏を固安公主に封じて李大輔に娶らせた。 開元8年(720年)、李大輔は兵を率いて契丹救援に向かった際に戦死したため、その弟の魯蘇が立った。 開元10年(722年)、魯蘇が唐に入朝したため、玄宗は詔でその兄に饒楽郡王・右金吾員外大将軍兼保塞軍経略大使を襲名させ、レビラト婚により固安公主を妻とさせた。しかし、固安公主は嫡母と和めず離婚したため、玄宗はふたたび成安公主の娘の韋氏を東光公主として妻とさせた。 開元14年(726年)、唐は改めて魯蘇を奉誠王に封じ、右羽林軍員外将軍を授けた。 開元18年(730年)、奚の衆は契丹衙官の可突干に脅され、ふたたび叛いて東突厥に降った。魯蘇はこれを制止することができず、渝関に逃走し、東光公主は平盧軍に逃げ帰った。その秋、幽州長史の趙含章は清夷軍兵を発して奚を撃破し、200級を斬首した。これより奚衆は唐に降る。 開元20年(732年)、信安王李禕が奚を討伐したため、奚酋長の李詩瑣高らは部落5千帳を率いて唐に降った。そこで玄宗は詔で李詩瑣高を帰義王に封じ、兼特進・左羽林軍大将軍同正とし、帰義州都督に充ててその部落を幽州界安置に遷した。 天宝5載(746年)、唐は奚王の娑固を昭信王に封じ、饒楽都督とした。 貞元4年(788年)7月、奚と室韋は振武を寇した。 貞元11年(795年)4月、幽州は奚の6万余衆を撃退した。 元和元年(806年)、奚王・饒楽府都督・襲帰誠王の梅落が唐に来朝したので、憲宗は検校司空を加えてやった。 元和3年(808年)、唐は奚首領の索低を右武威衛将軍同正とし、檀州・薊州游奕兵馬使に充て、国姓の李氏を賜った。 元和8年(813年)、元和11年(816年)にも奚は遣使を送って名馬を献上した。
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