隋・唐時代とは? わかりやすく解説

隋・唐時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 17:01 UTC 版)

寒食節」の記事における「隋・唐時代」の解説

唐代は特に中期以降漢詩題材として寒食取り上げられる機会増え沈佺期は嶺外には寒食がないこと、初唐期の崔融中国語版)や盛唐期の陳潤は江南長江南部)における寒食それぞれ詠みこんでおり、北方中原だけでなく浙江省周辺まで寒食節風習伝わっていたとみられるまた、8世紀開元年間玄宗によって寒食節墓参することが勅許され、10世紀半ば後周では墓で紙銭焼いていた、と19世紀朝鮮著された『東国歳時記』に記述されている。 日本から唐に渡った円仁9世紀半ばの『入唐求法巡礼行記』で寒食節について触れ開成4年839年)の2月14日から2月16日、および翌開成5年840年)の2月23日から2月25日3日間は、いずれも世間では煙を出さず全て寒食食べる」と記している。なお、日本には寒食節風習がないことが18世紀の『和漢三才図会』に書かれているが、小正月のとんどは寒食節火祭り影響受けているという見方がある。

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隋・唐時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 23:14 UTC 版)

中国文様史」の記事における「隋・唐時代」の解説

南北朝混乱統一した隋は中央官制改革し科挙による官僚登用制度均田制実施など多く改革積極的に推し進めた。しかし、その急激な変化民衆の不安が増し統一後わずか29年で後の唐の高祖李淵滅ぼされた。唐の時代になると、西方からサーサーン朝ペルシャ文化流入し活気のある国際的な文化になった日本正倉院は、中国本土で失なわれてしまった唐文化宝庫である。これらからは、連珠文・花文・双文・狩猟文聖樹有翼文などペルシャ系の文様多くみられる。また仏教とともに入ってきた唐草文モチーフは、唐の時代には葡萄唐草宝相華海石榴などに変化した唐三彩花文盤 唐三彩宝相華文唐三彩宝相華文

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隋唐時代

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江蘇省」の記事における「隋唐時代」の解説

589年隋代による中国統一達成されると、煬帝中国南北連絡する大運河建設した。しかしこの大規模土木事業により民衆反発招いた煬帝その後江都(現揚州)で反乱軍殺害された。行政区画としては開皇年間581年-600年)に呉州揚州徐州設置され大業年間605年-618年)に呉・毗陵丹陽江都下邳彭城東海の諸郡に改編されている。 唐代には揚州徐州設置され、またその後江南淮南河南三道に分属した大運河長江とが境界接す交通の要衝であったこと、並び沿岸港湾都市当時活発化していた国際交流窓口となっていたことから揚州商業都市として発展し、「揚一益二(商業揚州第一益州第二)」と称された。 ^ “公的支援要請中国熔盛、「大きすぎてつぶせない」のか”. Reuters (Reuters). (2013年7月8日). https://www.reuters.com/article/l4n0fe0ry-angle-china-ship-idJPTYE96705320130708 2013年7月8日閲覧

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隋唐時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 10:00 UTC 版)

「奚」の記事における「隋唐時代」の解説

隋代以降、庫奚は単に奚と呼ばれるようになり、突厥属しながらも隋などの中華王朝にも朝貢をした。 中国で隋に変わって唐が成立すると、奚は武徳年間618年 - 626年)に朝貢をした。 貞観18年644年7月営州都督張倹幽州営州の兵および契丹と奚の兵を率いて高句麗征伐した。この時、奚大酋の支は従軍して戦功があった。 貞観22年648年)、太宗によって北方遊牧騎馬民族がすべて唐の支配下入れられると(羈縻政策)、奚の酋長である可度者はその所部率いて唐に内属したので、饒楽都督府が置かれ、可度者は右領軍兼饒楽都督に任ぜられ、楼煩県公に封ぜられ、唐の国姓である李氏賜った。また唐は、阿薈部を弱州、処和部を祁黎州、粤失部を洛瓌州、度稽部を太魯州万俟折部を渇野州とし、各酋領辱紇主をもって刺史とし、饒楽府隷属させた。さらに営州東夷都護府置いて漠・饒楽の地を統括させるとともに東夷校尉置いた顕慶656年 - 661年初め、可度者は唐より右監門大将軍授かったが、その後亡くなったため、奚は唐に叛いた。 顕慶5年660年)、唐は定襄都督の阿史徳賓、左武将軍の延陀真、居延州都督の李含珠を冷陘道行総管とし、龍朔元年661年)、尚書右丞の崔余慶に奚を討たせると、奚が懼れ降伏してきたので、奚王の匹帝を斬首した。 武周万歳通天年間696年 - 697年)、契丹叛くと奚も叛いて東突厥第二可汗国)に属し両国は常に遞為表裏をなしたため、「両」と号した景雲元年710年)、首領大輔は遣使を送って朝貢したので、睿宗はこれに喜び使者厚くもてなした延和元年712年)、左羽林将軍検校幽州大都督の孫倹は12の兵を率いて奚の部落襲撃した。しかし、前軍左驍衛将軍洛らが大輔戦って敗れたため、大輔は孫倹と副将の周以悌を捕えて東突厥可汗默啜所へ送り殺害させた。 開元3年715年)、大輔大臣の粤落を唐へ遣わして降したので、その地に饒楽州が置かれ、唐によって大輔は饒楽郡王に封ぜられ、左金吾員外大将軍・饒楽州都督を拝命した。 開元5年717年)、大輔契丹首領郡王失活柳城の旧置営州都督府依ることを請願し、唐の許可得たこの年大輔が唐に入朝したため玄宗は詔で従外甥の娘である辛氏を固安公主封じて大輔に娶らせた。 開元8年720年)、大輔は兵を率いて契丹救援向かった際に戦死したため、その弟の立った開元10年722年)、が唐に入朝したため玄宗は詔でその兄に饒楽郡王・右金吾員外大将軍保塞軍経略大使襲名させ、レビラト婚により固安公主を妻とさせた。しかし、固安公主嫡母和めず離婚したため、玄宗はふたたび成安公主の娘の韋氏東光公主として妻とさせた。 開元14年726年)、唐は改めを奉誠王に封じ右羽林軍員外将軍授けた開元18年730年)、奚の衆は契丹衙官の可突干に脅され、ふたたび叛いて東突厥降ったはこれを制止することができず、渝関に逃走し東光公主は平盧軍に逃げ帰った。その秋、幽州長史の趙含章は清夷軍兵発して奚を撃破し200級を斬首した。これより奚衆は唐に降る。 開元20年732年)、信安王禕が奚を討伐したため、奚酋長李詩瑣高らは部落5千帳を率いて唐に降った。そこで玄宗は詔で李詩瑣高を帰義王封じ、兼特進左羽林軍大将軍同正とし、帰義州都督充ててその部落幽州安置に遷した。 天宝5載(746年)、唐は奚王の娑固を昭信王に封じ、饒楽都督とした。 貞元4年788年7月、奚と室韋は振武を寇した。 貞元11年795年4月幽州は奚の6万余衆を撃退した元和元年806年)、奚王・饒楽府都督・襲帰誠王の落が唐に来朝したので、憲宗検校司空加えてやった。 元和3年808年)、唐は奚首領の索低を右武威衛将軍同正とし、檀州薊州游奕兵馬使に充て国姓李氏賜った元和8年813年)、元和11年816年)にも奚は遣使を送って名馬献上した

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