隋室楊氏の出自
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隋の帝室である楊氏は『隋書』によれば、後漢代の有名な官僚の楊震の子孫にあたるという(ただし、谷川道雄は「隋の帝室楊氏は、漢代以来の名族として名高い弘農郡の楊氏の出身と称するが、真偽のほどはさだかでない。確実な記録では、祖先は北魏時代、長城北辺の武川鎮で国境防衛にあたっていた軍人の家柄で、その通婚関係からみて、非漢民族の血を多く交えているらしい」と述べている)。楊震は、かつての教え子が「誰も知らないことですから」と賄賂を渡そうとしたところ、「天知、神知、我知、子知、何謂無知(天地の神々が知っている。私とあなたも知っている。誰も知らぬとどうして言えよう)」と言って拒否したという四知の逸話で有名な人物である。その後、楊氏は北魏初期に武川鎮へと移住し、楊堅の父の楊忠に至る。武川鎮とは北魏において首都の平城を北の柔然から防衛する役割を果たしていた軍事基地の一つである(武川鎮軍閥、六鎮の乱などを参照)。楊震以後の系図は「楊震…楊鉉 - 楊元寿 - 楊恵嘏 - 楊烈 - 楊禎 - 楊忠 - 楊堅」となるが、楊震と楊鉉のあいだは二種類の系図(『隋書』文帝紀と『新唐書宰相世系表(中国語版)』)が全然合わず、『隋書』は、楊鉉を楊震の八代の孫としているのに対して、『新唐書宰相世系表(中国語版)』は、十九代の孫としており、さらに、両系図ともに途中に名前も不明の世代が多く、これらはいずれも偽作の系図であり、それには二通りあったことになる。一つは隋代にすでに偽作されており、もう一つは唐代になってからの偽作とみられ、これは隋室楊氏を漢人出身としなければ都合が悪いと思っての仮託とみなされる。 北魏孝文帝のとき、帝室の拓跋氏(虜姓)を元氏(漢姓)に変えるといった風に、虜姓とよばれる北族の姓を漢姓に改めるという漢化政策が行われたことがあったが、西魏末年、これに反発して、鮮卑国粋主義の波にのって姓名を再び漢姓から虜姓に改姓(虜姓再行)し、漢人にも虜姓を賜与し、漢人に対しても鮮卑化政策を行い、554年ころに楊堅の父の楊忠にも普六茹(ふりくじょ)という虜姓を与えられたとされ、楊堅も普六茹堅とよばれていた。普六茹は楊(ヤナギ)の鮮卑語である。楊堅も、那羅延という鮮卑風の小字を持っていた。 しかし、八人の柱国大将軍とその下の十二人の大将軍から構成された西魏常備軍の八柱国・十二大将軍は、李虎(唐の高祖李淵の祖父)、李弼(隋末反乱期の英雄李密の曾祖父)、楊忠(楊堅の父)を除いては鮮卑系であり、八柱国・十二大将軍の家は、本来すべて鮮卑系であるが、上記の三氏、とくに隋室楊氏、唐室李氏は、漢人に君臨する皇帝となったために、後世、本来漢人であったように系譜を偽作したのではないかと疑われる。隋室楊氏は、西魏・北周で頭角を現した旧六鎮の北族を出自とする新興の氏族に過ぎず、その勢力は甚だ脆弱であり、北族系氏族が漢人門閥を標榜して王朝を立てた先達の北斉に倣い、北族であった隋室楊氏が自らの基盤を強化するために漢人門閥の弘農楊氏を冒称し、血縁に限らず楊姓の者を「宗人」「皇族」として宗衛に集めて積極的に取り込み、隋室本体の基盤を強化したものであり、元々は鮮卑の出自で西魏・北周時代に称していた普六茹が本来の姓で、北魏の漢化政策の際に付けられた姓が楊氏であるという説がある。 日本学界では、布目潮渢、古松崇志、楊海英、宮脇淳子、岡田英弘、加藤徹、外山軍治、礪波護、佐藤智水、村元健一、堀井裕之、会田大輔、片山剛、宇和川哲也、伊達宗義、小林道憲、向井佑介、梅原猛、渡部昇一、斉藤茂雄、塚本靑史、村山秀太郎、古田博司、宇山卓栄、上田雄、孫栄健などが鮮卑説を支持している。 日本学界以外では、韓国政府の行政機関である韓国コンテンツ振興院の「楊堅」の項目には、「鮮卑族または鮮卑族との混血出身と推定される」と記述しており、韓国の代表的な百科事典である斗山世界大百科事典などの各種辞典の「楊堅」の項目には、「弘農華陰人と名乗るが、実際には漢人ではなく鮮卑族、または鮮卑族との混血武将家出身である」 と記述している。楊氏の鮮卑説の根拠として以下のものが挙げられる。 鮮卑の宇文泰が自分と同じ立場の鮮卑人の武川鎮軍閥関係者から八柱国と十二大将軍を置いたが、十二大将軍の一人が陳留郡開国公楊忠(楊堅の父)であること(唐の初代皇帝李淵は八柱国の一人の隴西郡開国公李虎の孫) 煬帝が父の文帝の姫妾(陳氏)を後宮に入れるなど、遊牧民の風習であり、儒教では不義にあたるレビラト婚を行っていること 楊氏は楊震から出たとされるが真偽はわからないこと 楊氏が五胡十六国時代から南北朝時代に、数代にわたり鮮卑の国家北朝の官人を務めたことは事実であること 楊堅の祖先は六代の間、北朝の非漢族諸王朝のもとで官人となり、支配階級である鮮卑の名門一族と通婚を行っていること 楊堅の皇后の独孤伽羅は鮮卑族の有力貴族の独孤氏であること 南北朝時代に華北を支配した北朝は鮮卑人を支配層とする王朝であり、隋も北朝の系統から成立したこと 楊忠が目立った活躍がないにもかかわらず創成期の十二大将軍の一人に選ばれたこと 宇文氏・独孤氏と姻戚関係を結んでいたことから、宇文氏と近い北族系人物であると考えられること 7世紀はじめの東ローマ帝国の歴史家であるテオフィラクトス・シモカテスは、581年の隋の統一を「タウガス Taugas の統一」と表現している 『隋書』高祖本記は「漢の太尉楊震の八世の孫の楊鉉、燕に仕えて北平の太守となる。楊鉉、楊元寿を生む。後漢の代、武川鎮の司馬となる。子孫因よりて焉に家す」とあり、隋室楊氏の世系を楊震から楊鉉まで8代としている。一方、『新唐書宰相世系表(中国語版)』は、隋室楊氏の世系を楊震から楊鉉まで19代としており、大きく矛盾している。清代の学者沈炳震(中国語版)は『唐書宰相世系表訂偽』において、隋室楊氏の系譜に疑問を呈しており、清代の学者万斯同も『新唐書宰相世系表(中国語版)』は漢の霊帝から前燕に至る170年ばかりの間に17代を数えており、如何にも不合理であると指摘している 一方、鮮卑か否かを断定しない意見もあり、守屋洋は「楊氏はもと胡族(鮮卑)から出たのではないかと言われているが、このほうがむしろ信憑性が高いかもしれない」と述べており、陳舜臣は「隋の文帝楊堅は、後漢の太尉で硬骨をもって知られた楊震の末裔と称していますが、鮮卑族の血が濃いという説もあります。祖父楊元寿が北魏の六鎮のなかの武川鎮の司令官でしたから、鮮卑説も根拠がないわけではありません。北魏が東西に分裂したとき、彼の父楊忠は西魏の将軍になりました。西魏とそれにかわった北周は、府兵を指揮する軍人貴族として、『八柱国』『十二将軍』を設けたことは前述したとおりです。文帝楊堅の時代になって、将軍から柱国に昇進したのですから、秦の始皇帝にくらべて、隋の文帝の家系的背景はきわめて薄弱であったといわねばなりません」と述べている。 貝塚茂樹は、「隋王朝の開祖文帝、すなわち楊堅の父にあたる楊忠は北周開国の功臣の一人で、妻は鮮卑の貴族独孤氏の女である。華北北朝の漢族官僚と異民族との混血児である楊堅が、華北における漢族と異族との融合の結果誕生した統一王朝の君主となったのは決して偶然ではなかった」と述べており、漢族と鮮卑の混血としている。楊堅の母は、山東の漢人寒族(中国語版)の呂氏というが、素性は明らかでなく、楊堅即位後にそのおいと称する呂永吉(中国語版)なるものが現れているが怪しく、北魏のとき、呂氏と改めた鮮卑族の叱呂氏という指摘がある。 常石茂と駒田信二は、「楊氏は漢人だったが、常に鮮卑と婚姻を通じていたので、楊堅は鮮卑語で普六茹堅と呼ばれていた」と述べており、漢族と鮮卑の混血としている。 宮崎市定は、「宇文氏の北周は鮮卑であり、楊氏の隋は漢人であると区別することがよく行われるが、これほど無意味なことはない。当時においては既に宇文氏も鮮卑というの要を認めぬほどに中原化し、その朝廷には漢字を用い、中原語を話していた。一方楊氏は姓こそ中原の姓であるが、その血統において、その風習において、先朝の宇文氏とどれほどの差違があろうか。宇文氏も楊氏も更生せる新社会における同性質なる一分子たるに過ぎなかった」と述べている。 従来、隋・唐に関する歴史教科書の記述は、魏晋南北朝時代の分裂を漢人国家が再統一したかのごとく描かれてきたが、近年は、北魏にはじまる北朝から隋・唐の諸王朝を「拓跋国家」という言葉を使用、一括して扱う帝国書院の歴史教科書などがあらわれている。「拓跋国家」とは、北魏から唐にいたる過程で、遊牧と農耕、鮮卑諸部族と他諸部族、漢人と非漢人などが共存・混沌としていた地域を拓跋出身の支配層が中核となり、非漢人諸部族や漢人を取り込み、軍事力によって統合した政治連合体をあらわす。2017年度から使用されている清水書院の歴史教科書『高等学校 世界史A』は、「北朝では、534年に北魏が分裂した後も鮮卑系の王朝が興亡し、鮮卑系の楊堅が建国した隋は、北朝だけでなく南朝の陳も征服して、589年中国を統一した」と書かれている。
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