隋室楊氏の出自とは? わかりやすく解説

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隋室楊氏の出自

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 08:55 UTC 版)

「隋」の記事における「隋室楊氏の出自」の解説

隋の帝室である楊氏『隋書』によれば後漢代有名な官僚楊震の子孫にあたるという(ただし、谷川道雄は「隋の帝室楊氏は、漢代以来名族として名高い弘農郡楊氏出身称するが、真偽のほどさだかでない確実な記録では、祖先北魏時代長城北辺武川鎮国境防衛にあたっていた軍人家柄で、その通婚関係からみて、非漢民族の血を多く交えているらしい」と述べている)。楊震は、かつての教え子が「誰も知らないことですから」と賄賂渡そうとしたところ、「天知神知、我知、子知、何謂無知天地神々知っている。私とあなたも知っている誰も知らぬとどうして言えよう)」と言って拒否したという四知逸話有名な人物である。その後楊氏北魏初期武川鎮へと移住し楊堅の父の楊忠に至る。武川鎮とは北魏において首都平城を北の柔然から防衛する役割果たしていた軍事基地一つである(武川鎮軍閥六鎮の乱などを参照)。楊震以後系図は「楊震…楊鉉 - 楊元寿 - 楊恵嘏 - 楊烈 - 楊禎 - 楊忠 - 楊堅」となるが、楊震と楊鉉のあいだは二種類系図『隋書』文帝紀と『新唐書宰相世系表(中国語版)』)が全然合わず『隋書』は、楊鉉を楊震八代の孫としているのに対して、『新唐書宰相世系表(中国語版)』は、十九代の孫としており、さらに、両系図ともに途中に名前も不明世代多く、これらはいずれ偽作系図であり、それには二通りあったことになる。一つ隋代にすでに偽作されており、もう一つ唐代になってからの偽作とみられ、これは隋室楊氏漢人出身としなければ都合が悪い思って仮託みなされる北魏孝文帝のとき、帝室拓跋氏姓)を元氏漢姓)に変えるといった風に姓とよばれる北族の姓を漢姓改めるという漢化政策が行われたことがあったが、西魏末年、これに反発して鮮卑国粋主義の波にのって姓名を再び漢姓から姓に改姓姓再行)し、漢人にも姓を賜与し、漢人に対して鮮卑化政策を行い554年ころに楊堅の父の楊忠にも普六茹(ふりくじょ)という姓を与えられたとされ、楊堅も普六茹堅とよばれていた。普六茹は楊(ヤナギ)の鮮卑語である。楊堅も、那羅延という鮮卑風の小字持っていた。 しかし、八人柱国大将軍とその下の十二人の大将軍から構成され西魏常備軍八柱国十二大将軍は、李虎唐の高祖李淵祖父)、李弼(隋末反乱期英雄李密曾祖父)、楊忠楊堅の父)を除いて鮮卑系であり、八柱国十二大将軍の家は、本来すべて鮮卑系であるが、上記の三氏、とくに隋室楊氏、唐室李氏は、漢人君臨する皇帝となったために、後世、本来漢人であったように系譜偽作したのではないか疑われる。隋室楊氏は、西魏北周頭角現した旧六鎮の北族を出自とする新興氏族過ぎず、その勢力甚だ脆弱であり、北族系氏族漢人門閥標榜して王朝立てた先達北斉倣い、北族であった隋室楊氏が自らの基盤強化するために漢人門閥弘農楊氏冒称し、血縁限らず楊姓の者を「宗人」「皇族」として宗衛に集めて積極的に取り込み、隋室本体基盤強化したものであり、元々は鮮卑出自西魏北周時代称していた普六茹が本来の姓で、北魏漢化政策の際に付けられた姓が楊氏であるという説がある。 日本学界では、布目潮渢古松崇志楊海英宮脇淳子岡田英弘加藤徹外山軍治礪波護佐藤智村元健一堀井裕之、会田大輔片山剛宇和川哲也伊達宗義小林道憲向井佑介梅原猛渡部昇一斉藤茂雄塚本靑史村山秀太郎古田博司宇山卓栄上田雄、孫栄健などが鮮卑説を支持している。 日本学界以外では、韓国政府行政機関である韓国コンテンツ振興院の「楊堅」の項目には、「鮮卑族または鮮卑族との混血出身推定される」と記述しており、韓国代表的な百科事典である斗山世界大百科事典などの各種辞典の「楊堅」の項目には、「弘農華陰人と名乗るが、実際に漢人ではなく鮮卑族、または鮮卑族との混血武将家出身である」 と記述している。楊氏鮮卑説の根拠として以下のものが挙げられる鮮卑宇文泰自分と同じ立場鮮卑人武川鎮軍閥関係者から八柱国十二大将軍置いたが、十二大将軍一人陳留郡開国楊忠楊堅の父)であること(唐の初代皇帝李淵八柱国一人隴西郡開国李虎の孫) 煬帝が父の文帝の姫妾(陳氏)を後宮入れるなど、遊牧民風習であり、儒教では不義にあたるレビラト婚行っていること 楊氏楊震から出たとされる真偽わからないこと 楊氏五胡十六国時代から南北朝時代に、数代にわたり鮮卑国家北朝官人務めたことは事実であること 楊堅祖先六代の間、北朝の非漢族諸王朝のもとで官人となり、支配階級である鮮卑名門一族通婚行っていること 楊堅皇后独孤伽羅鮮卑族の有力貴族独孤氏であること 南北朝時代華北支配した北朝鮮卑人支配層とする王朝であり、隋も北朝系統から成立したこと 楊忠目立った活躍がないにもかかわらず創成期十二大将軍一人選ばれたこと 宇文氏独孤氏姻戚関係結んでいたことから、宇文氏と近い北族系人物であると考えられること 7世紀はじめの東ローマ帝国歴史家であるテオフィラクトス・シモカテスは、581年の隋の統一を「タウガス Taugas統一」と表現している 『隋書』高祖本記は「漢の太尉楊震八世の孫の楊鉉、燕に仕えて北平太守となる。楊鉉、楊元寿を生む後漢の代、武川鎮司馬となる。子孫因よりて焉に家す」とあり、隋室楊氏世系楊震から楊鉉まで8代としている。一方、『新唐書宰相世系表(中国語版)』は、隋室楊氏世系楊震から楊鉉まで19代としており、大きく矛盾している。清代学者沈炳震(中国語版)は『唐書宰相世系表訂偽』において、隋室楊氏系譜疑問呈しており、清代学者万斯同も『新唐書宰相世系表(中国語版)』は漢の霊帝から前燕に至る170年ばかりの間に17代を数えており、如何にも不合理であると指摘している 一方鮮卑か否か断定しない意見もあり、守屋洋は「楊氏はもと胡族(鮮卑)から出たではないかと言われているが、このほうがむしろ信憑性が高いかもしれない」と述べており、陳舜臣は「隋の文帝楊堅は、後漢太尉硬骨をもって知られ楊震末裔称していますが、鮮卑族の血が濃いという説もあります祖父楊元寿が北魏六鎮のなかの武川鎮司令官でしたから、鮮卑説も根拠がないわけではありません。北魏東西分裂したとき、彼の楊忠西魏将軍なりました西魏とそれにかわった北周は、府兵指揮する軍人貴族として、『八柱国』『十二将軍』を設けたことは前述したとおりです。文帝楊堅時代になって将軍から柱国昇進したのですから、秦の始皇帝くらべて、隋の文帝家系背景きわめて薄弱であったといわねばなりません」と述べている。 貝塚茂樹は、「隋王朝開祖文帝、すなわち楊堅の父にあたる楊忠北周開国功臣一人で、妻は鮮卑貴族独孤氏の女である。華北北朝漢族官僚異民族との混血児である楊堅が、華北における漢族異族との融合結果誕生した統一王朝君主となったのは決して偶然ではなかった」と述べており、漢族鮮卑混血としている。楊堅の母は、山東漢人寒族(中国語版)の呂氏というが、素性は明らかでなく、楊堅即位後にそのおいと称する永吉中国語版)なるものが現れているが怪しく北魏のとき、呂氏改めた鮮卑族の叱呂氏という指摘がある。 常石茂駒田信二は、「楊氏漢人だったが、常に鮮卑婚姻通じていたので、楊堅鮮卑語で普六茹堅と呼ばれていた」と述べており、漢族鮮卑混血としている。 宮崎市定は、「宇文氏北周鮮卑であり、楊氏の隋は漢人であると区別することがよく行われるが、これほど無意味なことはない。当時においては既に宇文氏鮮卑というの要を認めぬほどに中原化し、その朝廷には漢字用い中原語を話していた。一方楊氏は姓こそ中原の姓であるが、その血統において、その風習において、先朝宇文氏どれほど差違があろうか。宇文氏楊氏更生せる新社会における同性質なる一分子たるに過ぎなかった」と述べている。 従来隋・唐に関する歴史教科書記述は、魏晋南北朝時代分裂漢人国家再統一したかのごとく描かれてきたが、近年は、北魏にはじまる北朝から隋・唐諸王朝を「拓跋国家」という言葉使用一括して扱う帝国書院歴史教科書などがあらわれている。「拓跋国家」とは、北魏から唐にいたる過程で、遊牧農耕鮮卑諸部族と他諸部族漢人と非漢人などが共存混沌としていた地域拓跋出身支配層中核となり、非漢人諸部族漢人取り込み軍事力によって統合した政治連合体をあらわす。2017年度から使用されている清水書院歴史教科書高等学校 世界史A』は、「北朝では、534年北魏分裂した後も鮮卑系の王朝興亡し、鮮卑系の楊堅建国した隋は、北朝だけでなく南朝の陳も征服して589年中国統一したと書かれている

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