唐宋代とは? わかりやすく解説

唐宋代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 16:54 UTC 版)

中国におけるイスラームの歴史」の記事における「唐宋代」の解説

詳細は「唐朝におけるイスラーム」および「宋朝におけるイスラーム」を参照 10世紀ごろに至るまで、中国訪れて定住したムスリム布教活動行っておらず、陸海通じたイスラーム影響ムスリム商人交易活動付随したものにとどまっており、イスラーム軍事的経済的影響と共に自然に伝わっていった。また、文化面でも「回回医薬学」と呼ばれるイスラーム医学・薬学もたらされた。 唐代においてはムスリム商人として中国訪れ、東は河南山西河北山東及んだ玄宗時代までは陸路でも「蕃客」や「胡人」と呼ばれたアラブ商人ペルシア商人中国訪れていたが、西域との経済的絶交勅令発して陸路遮断されてからは海路主要な経路となった。唐から北宋の時代にかけて最もムスリム商人活動顕著だった広州には数万人のムスリム住んでいたとされ、大貿易港となった宋代になって陸路遮断されたままだったが海路は繫盛していた。唐宋代のムスリムこのように商人多かったため富豪となるものも多く西安大清真寺をはじめ、広州の懐聖寺や泉州清浄寺など多くモスク建てられた。 当初ムスリム商人たち冬季本国帰っていたが、次第永住するものが増え、名前や衣服飲食中国化ていった漢人との混血進み宋代には「土生蕃客」や「五世蕃客」と呼ばれる中国生まれ蕃客出てきた。 『唐書』や『旧唐書』などには1日5回の礼拝ラマダンハラール金曜礼拝そのほかジハードについても正確に記されていたが、これらは単にアラブ人習慣みなされており、イスラーム宗教してみなされていなかった。845年には武帝によって道教国教化され、仏教マニ教ゾロアスター教などの外来宗教全て首都長安追放されたが、イスラーム追放されなかった。 751年にはアッバース朝との間でタラス河畔の戦いが行われ、唐朝大敗したが、これはイスラーム本格的な東進には至らなかった。しかし中央アジアイスラーム化進み中央アジア経由中国到達するムスリム増えたタラス河畔の戦い以後両国妥協して使者送り合い安史の乱起こった際には唐はアッバース朝援軍乞い、1,000余り援軍送られた。彼らは鎮圧後帰国せず、長安付近に定住した北宋の時代記された『夢渓筆談』に初めて「回回」という名称が用いられた。西遼時代には「回回」という呼び方広まっていき、すべてのムスリムを指す名称になった

※この「唐宋代」の解説は、「中国におけるイスラームの歴史」の解説の一部です。
「唐宋代」を含む「中国におけるイスラームの歴史」の記事については、「中国におけるイスラームの歴史」の概要を参照ください。

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