朝鮮外交問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 03:57 UTC 版)
書契問題が膠着する中、朝廷直交を実現すべく朝鮮外交の権限を外務省に一元化し、対馬宗氏を除外して皇使を派遣すべきだとの意見が維新政府内に強まった。その前提として調査目的に佐田白茅らが派遣されたが、彼は帰国ののち1870年(明治3年)「30大隊をもって朝鮮を攻撃すべきだ」という征韓の建白書を提出する。 局面の打開のため、外務省は対馬宗氏を通して朝鮮外交の一本化を進める宗氏派遣計画(1871年(明治4年)2月)や柳原前光の清国派遣(1871年(明治4年)8月政府等対論)など複数の手立てを講じ、同年9月13日には清国と日清修好条規が締結されるにおよんだ。しかしながら、1871年(明治4年)4月にアメリカ艦隊が江華島の砲台を占領、朝鮮側がこれを奪還する事態が生じ(辛未洋擾)、朝鮮が攘夷の意思を強めていたこともあって交渉は進展しなかった。1871年(明治4年)の末からは岩倉使節団が西欧に派遣されることとなり、国政外交に関する重要な案件は1873年(明治6年)秋まで事実上の棚上げとなった。
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