略歴とエピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/20 09:18 UTC 版)
以下の年代別略歴の記述の為の参照文献: 1988年画廊 シェーネ刊行 安徳 瑛作品集「街丘、風、、戻りくる日々 年譜 P72-P76 20世紀日本人名事典「安徳 瑛」 1996年講談社「フェーマス」「風の画家、安徳 瑛を悼む」表紙絵、P1-P4 国立国会図書館サーチ「安徳 瑛」 1940年 国鉄を退社した後、「華中鉄道」に勤務していた父・安徳 敏と母・杉谷 春子の間の長男として上海で生まれる。 1944年 4歳、上海市より引き揚げ、母親の郷里である熊本・水俣に一時疎開するが、7歳の時に熊本市に移り高校まで過ごす。 1950年 10歳、鹿児島出身の海老原喜之助が熊本市内で主催する絵画研究所に入会する。 1951年 11歳、熊本日日新聞社の主催する「火の玉祭りの絵」コンクールに応募し、「荒れ狂う馬と人の群」の大作を描いて、入賞[要出典]。 1956年 16歳、熊本県立済々黌高校へ進学。済々黌では、1年先輩に版画家の野田哲也が居た。後に東京藝大では同期になる。[要出典] 1959年 東京藝術大学美術学部油画科に入学。久保守、寺田春弐、山口薫、伊藤廉らの教授陣に指導を受ける。[要出典] 1963年 東京芸大卒業時に「大橋賞」受賞し、国画会に卒業制作を出品し初入選する。同時に大学院絵画研究科卒業。第39回国画会に出品した「国歌をうたう」F100号の作品が国画賞を受賞する[要出典]。 1967年27歳 芸大同期の浜田美智子と結婚[要出典]。 1969年 CWAJの版画展では「日本の若い版画家達」で佳作賞を受賞[要出典]。 1970年 30歳講談社のフェーマス・スクールズのインストラクターとして勤務[要出典]、1996年に55歳で亡くなるまで続ける[要出典]。 1974年 34歳 国画会展で会員に推挙[要出典]、 1996年2月1日 55歳 肺腺癌により死去。
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