略歴その他とは? わかりやすく解説

略歴その他

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 16:58 UTC 版)

村山槐多」の記事における「略歴その他」の解説

1896年明治29年9月15日愛知県額田郡岡崎町現在の岡崎市)にて、小学校教諭村山谷助とその妻・たまの長男として生まれる。 1897年明治30年某月高知県土佐郡小高坂村現在の高知市中心部一角)へ一家転居1900年明治33年某月4歳の年、京都市上京区寺町通荒神口上宮垣町58番地一家転居物心をついて間もないこの頃以降旧制中学校現代高等学校に相当)卒業まで京都で暮らす。 1903年明治36年3月31日保育所(現・京都市幼稚園)を卒業4月1日京都市立春日小学校入学1909年明治42年3月31日京都府師範学校附属小学校(現・京都教育大学附属京都小中学校)を卒業4月1日京都府立第一中学校(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)へ進学1910年明治43年)、水練伊勢海流奥傳5里免許取得7月28日 母方従兄である画家山本鼎渡欧途次多の家(※山本鼎年譜での住所上京区寺町通今出川上ル5丁目西入桜木町1番地になっていて、1900年住所とは違っている)に滞在し多に画才見出し油彩道具一式与えるなどした。このようなことをきっかけとして多は次第文学美術志すようになった一方、父は多の農業大学への進学希望していたため、父子対立が始まる。多はパリに居る鼎に作品送り、鼎は信州に住む自身両親多の父を説得するよう依頼し始める。 1911年明治44年中学3年多は、自宅土蔵詩作熱中し、『强盗』、『銅貨』、『孔雀石』、『アルカロイド』、『靑色廢園』、『新生』などの回覧雑誌作成し原稿集まらないときは、一人で一冊分を書いたりした。 1912年明治45年大正元年)、1級下のY少年プラトニックな恋をするこの頃ボードレールランボーなどを愛読しパルナシアン自任する1913年大正2年)、恋愛体験劇詩「鐡の童子2章戯曲惡女時期3幕緑靑」1幕、その他京言葉の詩を生むまた、木版画コマ画などを制作1914年大正3年キュービズム風の水彩画唐紙描きその他の版画を加えて展覧会を開く。これが賞讃され、一部記念として学校保存された。その中に愛人ひそかに模した光の王子』が含まれていた。3月31日京都府立第一中学校卒業5月上京する途中画家を志すきっかけ作ってくれた従兄山本鼎このころ暮らしていた長野県小県郡神川村大屋(現・上田市大屋)の山本家(鼎の父が1898年明治31年〉から医院開いていた)に立ち寄って1か月ほど滞在し多くスケッチ水彩画を残す。『川のある風景』もこの時の作品考えられる大阪朝日新聞に「繪馬堂仰ぎて」の一文寄稿し京都附録版に三日掲載された。文章内容ナショナル・ギャラリー建設提唱するものであった6月25日、ようやく上京し7月多のことを鼎に依託されて帰国した小杉未醒(のちの放庵)邸に寄宿する9月日本美術院研究生となり、小杉邸から通い始める。10月水彩画植物園の木』、『庭園少女』、『田端の崖』、『川沿ひの道』を第1回二科展出品し人生初の入選を果たす。 1915年大正4年3月美術院第1回習作展に『六本の手ある女』ほか油絵点出品。『尿する裸僧』25号など多く制作する。しかし、大作女子等と癩者』は未完成に終わる。10月、“第2回日本美術院展覧会”(※日本美術院再興第2回展覧会のことか。そうであれば10月11日開会)で『カンナ少女』が院賞を受賞絵画製作に熱中する一方かなりの貧困状態となる。長野に旅をし、自然に相対して素描勉強をする。同月14日より「信州日記 製作と思考」を記す。「魔傳」を『武侠世界』へ送り、これを江戶川亂步が「わが國初めての本格的スリラー」と賞讃したこの年両親東京へ移住し父子不和が深刻となる。 1916年大正5年)春、小杉邸を離れ独居する。美術院第2回習作展に素描4点出品根津裏通り二階転居し、ここでモデルお玉さんへの恋愛が始まるが、失恋し5月山国放浪の旅に出、飛騨山中炭焼き救われたりする。同月郷里である三河岡崎徴兵検査受けたのち、帰京油絵と女』100号を製作する7月山崎省三を旅先である伊豆大島訪ねひと夏を過ごす。9月山崎根津八重垣町に下宿する東京における生活は、午前研究所午後焼絵をした工場過ごしたこの年作画数多く、かつ酒を愛した1917年大正6年4月美術院第3回習作展に油絵湖水と女』と素描『娘のコスチウム』を出品し美術院金賞を受ける。この頃コンクールにおいて数度賞金受けた。夏、山崎と再び大島旅行帰京ののち、四谷転居この頃貧しい中で「ワレンス夫人あるいは「モナリザ」と綽名する落魄した名妓の生活を援助しその女性の美のクリエーションに酔う。酒量増加する9月美術院第4回展覧会で『乞食と女』を出品する展覧会或る日、泥酔して下谷署に一夜厄介になったのち、署長展覧会場見出し、『乞食と女』を紹介することとなる。10月院賞を受賞院友推される。ここで、寝るのに蒲団さえない貧窮の中で、酒を断ち仕事への集中決心する12月山崎三崎無銭旅行葉山署の厄介になる1918年大正7年1月山崎別れて信州旅立つはずが、亀戸天神付近の「すし屋」に10日ほど厄介になる4月美術院第4回習作展覧会に『樹木』、『自畫像』、『九十九里の濱』、『男の習作』他2点出品し美術院賞金甲種)を受ける。この頃大作風船玉をつく女』が未完成に終わる。山岳會主催展覧会に『秩父風景2点出品する同月根津六角堂の中で、山崎住んでいたが、中旬結核性肺炎にかかる。8月病後衰弱の中で『煙草をのむ男』100号を製作し美術院第5回展覧会出品する落選9月千葉の九十九里浜転地療養する。当時日記には、自殺の念の頻繁に起こることを記しており、死の予感と戦う。10月房州太地方で流浪し自殺試み思いとどまることを繰り返していたが、中旬漁師が、多量飲酒ののち、雨中岩礁に血を吐いて倒れている多を発見11月清水太郎より毎月30円ずつの奨学金出されることとなり、代々木本村初め一家借りて住む。これは鐘下山房名付けられ制作意欲が死と競うものの如く苛烈1919年大正8年2月1日美術院第5回習作展覧会に『』『次の日』『の群』『自画像』『と家』『大島風景』『某侯爵遠望』『代々木一部』を出品し美術院賞乙賞を受賞2月18日流行性感冒スペイン風邪)に襲われ病臥しているはずが、まじりの激しい中、夜になって姿が見えないのに友人らが気づき、嵐の中を捜索草むらの中で高熱にあえぐ多を深夜2時頃発見同日医師注射打たれながら、多は中学時代のY少年のことや、お玉さんの名を口にした。また「柿の木7本、3本」とか、直線曲線画法について口走った2月20日午前2時、「白いコスモス」、「飛行船ものうき光」という謎めいた数語を残し東京府豊多摩郡代々幡町現・東京都渋谷区代々木)の「鐘下山房」において、流行性感冒による結核性肺炎急死する22歳没。戒名は、清光院浄譽居士石井鶴三によりデス・マスクがとられた。同月28日谷中功徳寺埋葬1920年大正9年6月雑司ヶ谷共同墓地仮埋葬同月20日槐多の歌へる』(アルス社)が出版された。10月友人らにより墓碑建立1921年大正10年4月11日、『槐多の歌へる其の後及び多の話』(アルス社)が出版された。11月18日、『画集』(アルス社)が出版された。1935年昭和10年高村光太郎哀悼の詩『村山槐多』を詠む2011年平成23年12月多の出生地誤り判明し改められる2018年平成30年)秋、約100年間行不明になっていた木炭画信州風景2枚京都市内で見つかる。2019年平成31年3月27日 閉館決めた信濃デッサン館(現・KAITA EPITAPH 残照館館長窪島誠一郎館蔵357点を「信濃デッサン館コレクション」として長野県寄贈村山槐多作品多数がその中に含まれている。4月24日油彩画パステル画など未公開作品128点が京都府立第一中学校時代(現・洛北高等学校)の同級生先生の家から見つかったことを、この日、おかざき世界子ども美術博物館発表する2021年令和3年長野県立美術館改装開館により、長野県贈与され信濃デッサン館コレクションはここに収蔵・展示される。

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