ザ・フーとしてとは? わかりやすく解説

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ザ・フーとして

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 22:50 UTC 版)

キース・ムーン」の記事における「ザ・フーとして」の解説

1965年ザ・フー名義での1stシングル、「アイ・キャント・エクスプレイン」が全英8位という好調なスタートを切るが、バンド内ではドラッグ使用をめぐり、ロジャー・ダルトリーと他の3人の間に深刻な対立起こっていた。緊張の糸は9月ヨーロッパツアー中についに切れたダルトリードラッグハイになったムーン激怒し彼の錠剤全てトイレ流してしまった。ムーンタンバリン武器ダルトリー襲い掛かるが、ダルトリー殴り返され気絶してしまう。タウンゼント、エントウィッスル、ムーンの3人は全員一致ダルトリー解雇決断するが、ダルトリー謝罪マネージャーキット・ランバート説得により、何とか元の鞘収まった65年には「マイ・ジェネレーション」でもドラムプレイした。同曲はパンクルーツの1曲として記録されている。 だがバンド内紛はこれで収まった訳ではなかった。1966年になると今度ムーン脱退考えるようになる2月、彼はちょう前任ドラマー脱退したばかりのアニマルズへの加入目論んでいた。同年5月ジェフ・ベック招かれセッション参加他のメンバージミー・ペイジギター)、ジョン・ポール・ジョーンズベース)、ニッキー・ホプキンスピアノ)。ムーンはこのバンドレッド・ツェッペリン命名。このセッションで「ベックス・ボレロ」を録音した。これがムーンにとってプロデビュー後初のザ・フー以外での仕事となったが、タウンゼントはこのセッションについて「あれは政治的な動きだった。キースはこうすることで俺達ザ・フー戻って欲しいと言わせようとしてたのさ」と語っている。なお「ベックス・ボレロ」は、ベック1stソロシングル「ハイ・ホー・シルヴァー・ライニング」のB面として発表され、後にベック1stソロアルバムトゥルース』に収録された。 このセッションから間もない66年5月20日ライブ遅刻して来たエントウィッスルとムーン代わりにダルトリータウンゼント別のベーシストドラマー入れて勝手にライブ始めていたことに二人激怒大喧嘩の末に足を3針縫う怪我負ったムーンは、その場にいた記者たちにエントウィッスルと共にザ・フー脱退宣言した宣言通りムーン1週間ほどライブボイコットしたが、25日までには仲直りしムーン脱退取り下げた。またこの年3月17歳のキム・ケリガンと結婚7月には娘のアマンダ・ジェーンが生まれている。この時期、「恋のピンチ・ヒッター」「マジック・アイ」「ボリス・ザ・スパイダー」などの代表曲演奏参加したザ・フーは、モンタレーウッド・ストック などのロック・フェスティバル積極的に参加し世界のロック・ファンに知られるようになったキース豪快なドラミングは、見る者に強烈な印象与えた1970年1月、あるパーティ帰り若者集団囲まれムーン乗る車が襲撃を受ける。彼の運転手だったコーネリアス・ボランドが道を空けさせようと車から降りたところをムーン誤って車を発進させ、ボランド轢いて死なせてしまう。ムーン謹慎の身となるが、2月裁判所ボランドの死は事故断定され無罪となった。なお、当時ムーン飲酒した上に無免許であったが、これについても情状酌量により刑罰与えられなかった。だがこの事件ムーン暗い影落とし以後彼の行動はさらに厄介なものになっていった。70年ザ・フーの「サマー・タイム・ブルース」でもキース秀逸ドラミング披露し、彼らの代表曲となった。同曲はエディ・コクランの曲をカバーしたのである1971年フランク・ザッパ映画200モーテルズ』に出演。後に本格的に俳優としても活動するうになるダルトリーよりも先にムーン俳優デビュー果たした。翌1972年には、ザ・フーのロック・オペラ・アルバム『トミー』の舞台公演で、トミー叔父変態アーニー演じる。1975年にも映画版トミー』で同じくアーニー演じた1973年、妻のキムが娘を連れて家を出て行った後、ムーンはさらに自暴自棄になっていく。同年11月ロサンゼルスコンサートで、本番前に酒に動物用鎮静剤混ぜて飲み本番中倒れてしまう。この時のライブ観客からドラム叩ける者を募ってステージ上げ結局最後までプレイさせた。同年12月にはホテル破壊しタウンゼントやエントウィッスルを含めたバンド関係者16と共に牢屋入れられた(ダルトリーはこの事件には関わっていない)。 1974年3月イギリス離れロサンゼルス郊外のマリヴに移住ジョン・レノンハリー・ニルソン毎日のように飲み歩くうになる同年発表されレノンプロデュースしたニルソンの『プシー・キャッツ』にドラマーとして参加している。この二人影響されザ・フーの中で唯一ソロ作品発表していなかったムーンもついにソロアルバムの製作を決める。 1975年3月リリースされた、ムーン唯一のソロアルバム『ツー・サイズ・オブ・ザ・ムーン』は、自らがボーカルをとり、さらにリンゴ・スタージョー・ウォルシュ豪華ゲスト参加した制作費には200,000ドル費やされたものの、アルバムチャートイン果たせず、制作費回収するには至らなかった。ムーンはこれに懲りずに同年9月周囲反対押し切って2枚目のソロアルバムのためのレコーディングセッションを行う。アルバム遂に完成しなかったが、この時に録音され楽曲は、後に『ツー・サイズ・オブ・ザ・ムーン』がCD化される際にボーナストラックとして収録された。 1976年1月アルコール禁断症状起こし一時意識不明陥る同年8月にはマイアミ致死量に至るほどの飲酒をし、8日間の入院余儀なくされている。その際医師から「飲酒控えなければ3か月以内に死ぬだろう」と警告された。10月スウェーデン人モデルのアネット・ウォルター=ラックス再婚するが、ムーンの生活が改まることはなく、健康状態悪化一途をたどり、ザ・フーライブ活動から遠ざかっていった。

※この「ザ・フーとして」の解説は、「キース・ムーン」の解説の一部です。
「ザ・フーとして」を含む「キース・ムーン」の記事については、「キース・ムーン」の概要を参照ください。

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