ザ・フーとの決別
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/08 16:40 UTC 版)
「キット・ランバート」の記事における「ザ・フーとの決別」の解説
ランバートは1960年代からドラッグを使用していたが、70年代に入るとさらにドラッグの乱用が進み、これがザ・フーのメンバーとの関係が崩壊する一因となった。1971年3月、『トミー』に代わる新作ロックオペラ『ライフハウス』のレコーディングのため、ランバートはニューヨークのレコード・プラント・スタジオを手配するも、彼はヘロインにはまっており、作業をするメンバーの邪魔をするなどの奇行が見られるようになり、これまでのようなプロデューサーとしての仕事が出来なくなっていた。タウンゼントは彼のヘロイン禍がキース・ムーンにも及ぶことを恐れ、さらに自身のアルコール依存症も悪化し始めたため、レコード・プラントでの作業を早々に打ち切る。『ライフハウス』は結局完成せず、録音された作品はアルバム『フーズ・ネクスト』として世に出ることになったが、プロデューサーのクレジットにランバートの名はなかった。以降ランバートとスタンプは、部下のピーター・ラッジやビル・カービシュリーに仕事の一切を任せるようになり、メンバーとの関係はますます希薄になっていった。ネピア=ベルも「70年代に入ってからキットはそれまでのような頼もしさが消え失せてしまった」と回想している。 1973年、アメリカで得られた収益からの印税がメンバーに支払われていなかったことが発覚する。これより1年前にロジャー・ダルトリーが会計監査を使ってバンドの口座を調べており、使途不明金があることを把握していた。当初タウンゼントはランバートへの忠義心がまだ残っていたこともあり彼と争うことを拒んでいたが、支払われるべき印税の小切手をランバートが勝手に無効にしてしまったことでついに堪忍袋の緒が切れ、タウンゼント、ダルトリー、ジョン・エントウィッスルの3人はランバート、スタンプの二人を告訴した(ムーンはこの争いに加わることを拒否した)。1974年より二人に代わり、ビル・カービシュリーが事実上のバンド・マネージャーとなる。 ランバートもまた1975年の映画『トミー』の収益から自身に支払われるべき報酬が支払われてないとして、映画製作に携わったスタンプ、カービシュリー、ロバート・スティグウッドを相手に告訴することをニュー・ミュージカル・エクスプレス紙のインタビューで打ち明けた。これによりランバートとザ・フーの不和が公になる。同年、ランバートとスタンプは正式にザ・フーのマネージャー役から降ろされることとなった。なお未払いの印税は、タウンゼントの楽曲の出版権を管理している会社の社員が、勝手にその一部をアメリカの音楽業界人のアラン・クレインの会社に売り渡していたことが判明した。1977年1月にタウンゼント、スタンプ、クレイン、ランバートの代理人の4者による協議の結果、クレインに手数料を支払うことで印税の凍結を解除し、さらにザ・フーの楽曲の版権をバンドの関連会社に返却することで解決した。
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