1972年・1973年
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「シンモエダケ」の記事における「1972年・1973年」の解説
1972年、前年より関東地区で流行していた馬インフルエンザの影響により、関東地区の中央競馬の開催が2か月間も開催されない事態が生じたことから、4歳(旧馬齢)クラシック戦線の日程が大幅に変更となり、例年よりもステップレースの期間が長くなったが、シンモエダケは丈夫であったことと「馬が元気なうちは使う」という厩舎の方針から休まずレースを使われた。 1月4日の紅梅賞(京都)を制し、続く1月23日のシンザン記念(京都)では1番人気に支持され、2着のランドジャガーに4分の3馬身差をつけ、重賞初勝利を挙げた。さらに、この一戦だけは田之上の騎乗となった2月26日のオープン(阪神)でも人気に応えて勝った。続く4月9日の毎日杯(阪神)でも1番人気に支持されたものの、不良馬場で勝ち馬のユーモンドに8馬身半差をつけられる3着と完敗したが、4月30日の阪神4歳牝馬特別(現在のフィリーズレビュー、京都)では単勝オッズ1.2倍の1番人気に応えて勝ち、例年より1か月半ほど遅い開催となった5月21日の桜花賞(阪神)でも堂々1番人気に支持された。しかし、逃げるキョウエイグリーンが4ハロンを45秒台で通過するという速いペースについていけず、3コーナー付近で鞍上の手が動くという苦しい展開を強いられたことから7着に終わった。なお、勝ったのは同じ田之上勲厩舎のアチーブスターであった。その後、6月11日の4歳牝馬特別(現在のフローラステークス、東京競馬場)に出走したが、ここでも7着に終わった。優駿牝馬は出走を回避した。 秋シーズンは10月10日のオープン(阪神)から始動したが12着と大敗。続く10月29日の京都牝馬特別(現在の京都牝馬ステークス、京都)でも6着に終わった。11月19日のビクトリアカップ(京都)では3番人気となったが、アチーブスターに約2馬身差の3着。続く12月17日の阪神牝馬特別(現在の阪神牝馬ステークス、阪神)でも3着となった。 1973年は金杯(現在の京都金杯、京都)から始動したが8着に終わった。また藤岡の鞍上はこの一戦が最後となった。その後は田之上が手綱を執り5戦したが1度も勝てず、出走予定だった7月15日の小倉日経賞(小倉)を取り消しになったのを最後に、競走馬生活にピリオドを打った。その後、繁殖牝馬となった。
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