1972年 - 1973年とは? わかりやすく解説

1972年・1973年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/03/05 02:55 UTC 版)

シンモエダケ」の記事における「1972年・1973年」の解説

1972年前年より関東地区流行していた馬インフルエンザ影響により、関東地区中央競馬の開催が2か月間も開催されない事態生じたことから、4歳(旧馬齢クラシック戦線日程大幅に変更となり、例年よりもステップレースの期間が長くなったが、シンモエダケは丈夫であったことと「馬が元気なうちは使う」という厩舎方針から休まずレース使われた。 1月4日紅梅賞京都)を制し、続く1月23日シンザン記念京都)では1番人気に支持され、2着のランドジャガーに4分の3馬身差をつけ、重賞初勝利挙げた。さらに、この一戦だけは田之上騎乗となった2月26日オープン阪神)でも人気応えて勝った。続く4月9日毎日杯阪神)でも1番人気に支持されたものの、不良馬場勝ち馬のユーモンドに8馬身半差をつけられる3着と完敗したが、4月30日阪神4歳牝馬特別現在のフィリーズレビュー京都)では単勝オッズ1.2倍の1番人気に応えて勝ち、例年より1か月半ほど遅い開催となった5月21日桜花賞阪神)でも堂々1番人気に支持された。しかし、逃げキョウエイグリーンが4ハロン45秒台で通過するという速いペースについていけず、3コーナー付近鞍上の手が動くという苦しい展開を強いられたことから7着に終わった。なお、勝ったのは同じ田之上厩舎アチーブスターであったその後6月11日4歳牝馬特別現在のフローラステークス東京競馬場)に出走したが、ここでも7着に終わった優駿牝馬出走回避した。 秋シーズン10月10日オープン阪神)から始動した12着と大敗。続く10月29日京都牝馬特別現在の京都牝馬ステークス京都)でも6着に終わった11月19日ビクトリアカップ京都)では3番人気となったが、アチーブスターに約2馬身差の3着。続く12月17日阪神牝馬特別現在の阪神牝馬ステークス阪神)でも3着となった1973年金杯現在の京都金杯京都)から始動したが8着に終わった。また藤岡鞍上はこの一戦最後となったその後田之上手綱執り5戦したが1度勝てず、出走予定だった7月15日小倉日経賞小倉)を取り消しになったのを最後に競走馬生活にピリオドを打ったその後繁殖牝馬となった

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