1972年~1986年
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「第40航空突撃連隊」の記事における「1972年~1986年」の解説
1970年代初頭まで、部隊は第5軍管区(ドイツ語版)に所属した。1971年12月1日には部隊名が第2降下猟兵大隊(Fallschirmjägerbataillon 2, FJB-2)となる。また1972年11月8日には第40降下猟兵大隊(Fallschirmjägerbataillon 40, FJB-40)に改名され、12月1日以降は新設の地上軍司令部によって直接運用された。国家人民軍地上軍において40という部隊番号は地上軍司令部付を意味し、また部隊番号40が付された各部隊はいかなる場合においても他の下級司令部の指揮下に移らず、地上軍司令部によって直接運用されるものとされた。戦時及び特別の命令が下された場合、ワルシャワ条約機構各国軍は戦力の統合を図ることとされており、第40降下猟兵大隊はベルリンを中心に展開するものとされていた。 地上軍は部隊を大きく第3軍管区(ドイツ語版)と第5軍管区に分けており、当初はこれら軍管区ごとに降下猟兵大隊が編成される予定だった。しかし計画上の失敗から、いずれの軍管区の要請にも対応しうる中央部隊として司令部直属に1個の降下猟兵大隊だけが設けられたのである。当時の調査から2個大隊に相当する人的資源の確保は不可能と見なされていたが、1970年代には部隊の拡張が決定された。これに従って新たな訓練専門部隊の編成が行われ、予備役兵及び下士官の訓練が行われた。この部隊は爆破教育小隊(Sprengtaucherzug)と呼ばれていたが、後に偵察小隊(Aufklärungszug)と改名された。1978年末、ドイツ民主共和国北部は大雪害(ドイツ語版)に襲われた。第40降下猟兵大隊はこれを救援するべく出動し、降下猟兵らはヘリコプターとスキーを駆使して孤立した集落や農場に食料及び物資を送り届けた。 1980年12月以降、第40降下猟兵大隊はベルリン・シュトラウスベルクに駐屯地を移し、国防大臣を筆頭とした国防省高官や高級将校らの居住区の護衛の任についた。ここに暮らしていた著名な高級将校としてはフリッツ・シュトレーレッツ、ヴォルフガング・ラインホルトなどが知られる。以前から警護を担っていたフーゴー・エーバーライン衛兵連隊は、第40降下猟兵大隊と交代する形で任務を離れた。この配置転換は当時の国防大臣カール=ハインツ・ホフマン将軍によって行われた。ホフマンは党幹部の居住区であるヴァンドリッツ地区から離れて暮らす政治局メンバーの1人であり、自身が個人的に信頼出来る部隊によって護衛されることを望み降下猟兵を呼び寄せたのだとされている。 この任務を与えられた後、部隊は増員されると共に新たに中隊編成が行われた。当時は1個降下猟兵中隊を4個降下猟兵小隊によって構成していた。しかし1983年になると降下猟兵たる任務と国防省高官の護衛を両立する事は不可能と判断され、護衛任務は再び衛兵連隊に引き継がれた。ただし、その後も8週間ごとに2週間の特別警護(Sonderwache)の任務を受けてシュトラウスベルクに派遣された。特別警護任務における1回あたりの勤務時間は48時間とされており、それ以外の時間はシュトラウスベルク近郊に設置された施設における訓練に費された。 1981年、第40降下猟兵大隊はポツダムのレーニン演習場に駐屯地を移す。この施設は国家人民軍が有した演習場のうち、最先端の設備を有するものであった。同演習場は降下猟兵らの要望を取り入れ、リューゲン島よりも整備された市街戦訓練施設やヘリポートを備えていた。ただし兵舎の完成は遅れ、部隊の移動後も1年間は防空壕を臨時の兵舎として使用していた。
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