現役末期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 00:41 UTC 版)
しかし、それまでの酷使がたたって肩を故障し、1964年はプロ入り後初めて1勝も挙げられないシーズンとなった。以降、毎日走り続けたり、温泉でのリハビリを繰り返したりしたが、肩の痛みは一向に消えず、翌1965年の元日に半年ぶりにボールを握ってキャッチボールをするも、違和感が消えていなかったという。そのため、知人に頼んで硬球と同じ大きさの縫い目のついた鉄球を作ってもらい、それを投げるという荒療治を実行した。稲尾は後年にこの時のことについて、「どうしたら治るのか。素人の考えることは恐ろしい。(中略)ボールを投げて痛みがあるのなら、それ以上の痛みを与えれば、ボールを投げるくらいの痛さは気にならないのではないか、と思った。鉄球を投げて肩を悪くするかもしれないけど、何もしないで悪いままなら、やってみようと」と語っている。鉄球を投げてみると、あまりの激痛に涙が出たという。 その後も鉄球練習を続け、キャンプ中の2月15日、突然痛みが消えて投げられるようになった。稲尾は「突然、痛みが消えたんだ。慌ててブルペンで捕手を座らせて投げてみた。痛くない。信じられない気持ちでボールを投げたよ」と述べている。痛みは消えたものの、球威やキレなどは以前とは比べ物にはならないくらい凡庸になっており、この時のブルペン捕手は大きく顔を歪めたという。それでも稲尾は肩の違和感なく投げられたことを大きく喜び、1軍のマウンドに戻れる手応えを感じた。同年6月5日の東映戦でマウンドにあがり、8安打5失点の投球内容だったが約2年ぶりの白星を手にした。稲尾は「ひとつ勝つということがこれだけ大変なことなのか、と思った。でも、復活勝利の記憶はないんだ。1勝するまでに投げられたという思いの方が強かったから」と振り返っている。 1966年にリリーフ中心のスタイルにシフトし、最優秀防御率のタイトルを獲得。10月4日の対東京オリオンズ戦では75球で完投し、オリオンズの小山正明投手も87球で完投したため、合計162球の最少投球数試合の記録を作っている。この頃の稲尾は投手コーチも兼任し、若手投手(池永正明など)の指導をすることが楽しみのひとつだったという。同年と翌1967年には2年連続でチームの2桁勝利投手を4人同時に輩出している。 1969年限りで現役引退(実働14年)。稲尾自身は通算300勝を目標としており、リリーフならまだ現役を務められるという意識を持っていた。球団からの監督就任要請後も、黒い霧事件の発覚で投手を失う可能性も出ていたため、選手兼任を望んでいたが、悪化するばかりの状況の中で引退を余儀なくされた。黒い霧事件で主力投手が抜けてしまった頃、引退間もない稲尾は本気で現役復帰を考えたという。 稲尾が現役時代に着けていた背番号『24』は、監督時もそのまま着用していたが、翌1973年の親会社の身売りを機に背番号を81に変更している。この時、24番を永久欠番とする話を自ら断ったという。 こうした経緯から、経営を引き継いだ福岡野球株式会社(太平洋クラブ、クラウンライター)は、「将来有望な選手に与えたい」として保留欠番とし、1976年に古賀正明が着用した。 その後、西武ライオンズ(埼玉西武ライオンズ)となった後も、背番号『24』は小川史、秋山幸二、平野謙、小野和義、金村義明、眞山龍、松永浩典ら、そのまま他の選手が使用していた。しかし2012年、稲尾の生誕75周年の記念と功績を称え、永久欠番に指定されることになった。永久欠番になる前に最後に24をつけた選手はライアン・マルハーンであった。
※この「現役末期」の解説は、「稲尾和久」の解説の一部です。
「現役末期」を含む「稲尾和久」の記事については、「稲尾和久」の概要を参照ください。
- 現役末期のページへのリンク