現役末期から引退まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 09:14 UTC 版)
「若乃花幹士 (初代)」の記事における「現役末期から引退まで」の解説
栃錦の引退直後は3場所連続で13勝2敗、2度の優勝を果たすなど、栃若拮抗時代から第一人者として一時代を築くかと思われた。しかし1960年11月場所を9日目から途中休場、翌場所こそ12勝3敗と健在を示したものの、その後は優勝争いにからむこともなくなっていき、11勝前後の成績が多くなる。体力的な衰えというより、栃錦というライバルを失い気力の張りがなくなったことが大きかったという。新鋭の柏戸の鋭い出足に脅かされることも増え、その大関昇進前までは若乃花の4勝2敗に対して大関昇進後は2勝4敗と、若い力の台頭にも押され始めた。 このように「土俵の鬼」と云われた若乃花が引退を決意したのは、1962年1月場所、後に第49代横綱となる関脇の栃ノ海に負けた相撲であった。倒れそうになったら足を出して負けた方がましと考えるほど土俵で倒れることを極端に嫌っていた若乃花が、栃ノ海の見事な連続技(蹴手繰り・巻き落とし・突き落としを一瞬のうちに繰り出す)で土俵中央で転がされたのだった。「何しろ、それまで土俵の真ん中でこけたことは無かったからねぇ。それをやられたんで、こりゃいかんと思った」と若乃花は語ったという。 1962年5月1日、花籠部屋で記者会見を開き『昭和37年5月場所の土俵に上がらず、体力の限界』を理由に現役を引退することを表明した。 横綱として最後の9場所優勝なしでの引退は、栃錦のそれと比較され批判もあったが、現役中から二枚鑑札で春日野部屋を継承していた栃錦と違い引退後の独立に備えなくてはいけなかったこと、後輩横綱の朝潮が後を託すには安定感を欠いていたことなどの事情があってのものだった。 幕内通算546勝は、栃錦の513勝を更新する当時の最多勝記録だった。 師匠の花籠は、「私の苦労の道は、若乃花の努力の道である。若乃花との一心同体の経営が花籠部屋を築き上げた。」と述べており、花籠親方が食料調達など経営に精力を注ぎ、稽古場はもっぱら部屋頭の若乃花が、本家・二所ノ関部屋仕込みの「二所の荒稽古」で指導した。孫弟子にあたる貴ノ花は、「花籠親方とうちの師匠(若乃花)ほど仲のいい師弟はいない。」と述べている。
※この「現役末期から引退まで」の解説は、「若乃花幹士 (初代)」の解説の一部です。
「現役末期から引退まで」を含む「若乃花幹士 (初代)」の記事については、「若乃花幹士 (初代)」の概要を参照ください。
- 現役末期から引退までのページへのリンク