電化開業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 02:22 UTC 版)
1900年4月3日に行われた開業式 酒匂橋を渡る電車 こうして、馬車鉄道は1900年3月20日限りで廃止となり、翌3月21日からは全線で電車の運転が開始された。これは日本では4番目の電気鉄道で、馬車鉄道からの電化は日本では初めての事例である。 電化によって、利用者数の大幅な増加がみられた。馬車鉄道末期の同年3月20日までの利用者数は、前年同時期と比較して1万1500人減少しているのに対し、電化後の2か月だけで1万7000人もの利用者増となった。さらに、同年の6月からの半年間では4万人以上の利用者増をみており、電化したことは大成功であったといわれている。 また、不要になった馬や馬車、レールなどは全て東京馬車鉄道が買い取ったが、特にレールは予想していた価格よりも高く売れたことも、会社経営上では有利に作用した。なお、1901年には東京馬車鉄道は小田原電気鉄道の経営一切から身を引いているが、その後東京電車鉄道として開業する際には、乗務員の実習を小田原電気鉄道に依頼していた。 もっとも、電化後の経営は必ずしも順調ではなかった。1901年10月には電車の乗務員たちが労働条件改善を会社側に要求したが回答がなかったため、同年11月25日から2日間にわたるストライキを行なった。これは日本の電気鉄道では初のストライキといわれている。また、1904年には国府津と湯本に乗合馬車の事業者として古郡馬車が参入し、資金力にものをいわせた経営方針により、電車より低い運賃で集客を図ったのである。しかし、時の流れにより、乗合馬車は衰退していったとされている。 また、酒匂川や早川が毎年のように氾濫して被害を与えていた。特に、1902年9月に発生した小田原大海嘯では線路が埋没したほか、1910年8月の早川の洪水では風祭と湯本の間の軌道が流失してしまった。こうした水禍から逃れるには、「路線そのものを変える以外に方法はない」という結論に達したことから、1911年6月には風祭と湯本の間の軌道変更計画が立案され、1913年8月に山側へ軌道が移設された。
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