ソ連崩壊まで
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ブレジネフ書記長(任期1964年 – 1982年)の時代になっても、反ユダヤ主義は続いた。1966年、ユダヤ系作家ユーリー・ダニエリはグラグに5年間強制収容され、アンドレイ・シニャフスキーは「アブラム・テルツ」というユダヤ風の筆名でエッセーを刊行したため、7年のグラグ収容が言い渡された。 1967年の6日戦争後、ソ連では反シオニズムキャンペーンが展開し、ユーリー・イヴァノフは著書『シオニズムにご用心』でシオニストとナチスの連携について論じた。 1961年に反体制的であるとして収監されたユダヤ系作家エドゥアルド・クズネツォフは、釈放されると1970年に航空機ハイジャックを起こして死刑を言い渡されるが、国際世論によって刑は軽減された。クズネツォフは獄中で囚人たちがブレジネフ書記長やアンドロポフKGB議長をユダヤ人とみていたことを報告している。クズネツォフは1972年、イスラエルに亡命した。 青年団コムソモールの宣伝部書記であったが一度共産党から追放されたヴァレリー・スクルラートフは1975年に学位論文『シオニズムとアパルトヘイト』を刊行し、1976年に偽書『ヴェーレスの書』でギリシャ人とユダヤ人によって原ロシア人の文明は根こそぎ消失させられたと主張した。 レフ・コルネイエフはショアーの犠牲者はシオニストによって2倍3倍に水増しされたとし、ロベール・フォリソンの後継者を自任した。 1970年代にロシアでの数学界からユダヤ系学者が追放され、熱狂的な反ユダヤ主義者のイワン・マトレヴィチ・ヴィノグラードフとポントリャーギンが支配するようになり、フランスのユダヤ系数学者ローラン・シュヴァルツは抗議した。 1985年、ドミトリー・ヴァシリーエフが創設したロシア愛国主義団体パーミャチは、反ユダヤ主義を公然と掲げ、ロシアはシオニズムの攻撃、タルムードの無神論、コスモポリタニズムの侵略に屈服させられ、富を掠め取られていると主張する。1987年、ヴァレリー・エメリヤーノフは反シオニスト・反フリーメイソン世界戦線を創設した。 アレクシイ2世が1991年にイスラエルを訪問し、反ユダヤ主義を非難すると、同年2月27日雑誌『若き親衛隊』は、ユダヤ人は人類を隷属状態におとしめており、異教徒を根絶やしにする目的でアインシュタインやオッペンハイマーなどのユダヤ人学者は原子爆弾を作り、同じくユダヤ人のテラーは水素爆弾を、サミュエル・コーエンは中性子爆弾を開発したと批判した。また、ニュルンベルク裁判での処刑は10月16日に失効されたが、この日はユダヤ教の休日贖罪の日(ヨム・キプル)であり、ヤハウェの復讐の日であったとした。 ソ連からのユダヤ人の亡命者は1971年に1万3022人、1972年に3万1681人、1973年に3万4733人、1990年から1991年には数十万人が国外へ亡命した。1991年12月、ソビエト連邦の崩壊。 1993年10月、ロシア自由民主党のジリノフスキーは、イスラエルとシオニストは、アメリカと結託してソ連に第二のユダヤ人国家を創設しようとしているとし、またユダヤ人がロシアの新聞を支配していると発言した。
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ソ連崩壊まで
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「ルスラン・ハズブラートフ」の記事における「ソ連崩壊まで」の解説
1942年ソビエト連邦ロシア連邦共和国のチェチェン・イングーシ自治共和国の首都グローズヌィに生まれる。1944年スターリンによるチェチェン人の強制移住が実行されたが、ハズブラートフの家族もその対象となり、家族全員がカザフスタンに強制移住させられた。ハズブラートフは、14歳から働かざるを得ず、労働の合間に夜間学校で学んだ。1960年カザフ大学経済学部に入学。その後モスクワ大学法学部に移り、1967年に同大学を卒業した。この間、1966年にはソ連共産党に入党している。1970年モスクワ大学大学院を修了し、経済学博士号を取得した。 1970年からコムソモール中央委員会宣伝部に勤務。その後は、ソ連科学アカデミー社会科学情報研究所、高級学校問題研究所、プレハーノフ国民経済大学で学究生活を送る。エリツィンとは、1987年から行動を共にしている。1990年にロシア連邦共和国人民代議員に選出された。同年6月に最高会議第一副議長に選出されたが、これは、エリツィンが議会並びに国内の少数民族の支持を得るためにハズブラートフを選んだためである。1991年6月ロシア大統領選挙でエリツィンが選出されると、9月に後任の最高会議議長に選出される。ソ連8月クーデターでは、エリツィンらとロシア最高会議ビル(ホワイトハウス)に立てこもり、クーデター側と対峙した。なお、この年には共産党を離党している。
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