ソ連崩壊から9・11テロ前まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/06 04:24 UTC 版)
「日本の労働運動史」の記事における「ソ連崩壊から9・11テロ前まで」の解説
1989年秋の東欧革命から1991年12月のソ連崩壊により、新保守主義を掲げる政財界は、「社会主義・共産主義は死んだ」「自由主義・資本主義は勝利した」と喧伝した。 バブル崩壊を迎えた日本は、それまでの日本型の安定雇用社会の変革が叫ばれ、1980年代のアメリカを襲った整理解雇ブームは「リストラ」「希望退職」という名で日本に持ち込まれた。1999年には派遣法が改正され、一部の業種を除いて労働者派遣を自由化、就職氷河期に見舞われた若年層を中心に非正規雇用の労働者が激増した。しかし資本側による攻勢に対して労働組合側の対応は後手後手に回っていた。労働組合の組織率、組合員数は共に減少はこれまで以上に加速する。組織率では2005年には19.9%となり、戦後初めて組織率が20%を切った。 本来労働者の権益を守るはずの連合加盟の労働組合は、主導的かつ効果的な反対運動を取れず、それに伴う組合員の減少も食い止められなかった。これは、労使協調路線によりむやみに現実離れした会社への要求はかえって会社の業績を悪化させ、ひいては労働者自らのクビを締めることになりかねないと判断されたからである。現場レベルでは、組合役員の出世と引き換えに、現場の要求がなかなか取り上げられないことになった。また、バブル期に入社した組合役員の子弟による役員の世襲化が進んだ事により、一般組合員との意識のずれも垣間見られた。 これにより、多くの労働者は個人での裁判に訴えるか、この時期多く出来た企業外の労働組合に個人で新たに入って、闘うしかなくなった(例、連合・全労連・全労協加盟などの地域ユニオン、ローカルユニオン、地域労組や産業別個人加盟労組・合同労組、青年ユニオン、管理職ユニオン等)。 失われた10年と言われる不況下にあって、正社員はサービス残業・成果主義の荒波に見舞われ、心身ともに疲弊した労働者のうつ病・過労死・過労自殺が増えたが、企業内労使協調路線の組合は、会社との友好関係を重視したため黙殺。さらに信頼を失った。
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