ソ連型社会主義の拡大と混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 05:14 UTC 版)
「ソ連型社会主義」の記事における「ソ連型社会主義の拡大と混乱」の解説
ソ連は第二次世界大戦に勝利すると、自らの影響下に収めた東ヨーロッパの国にこの体制を押し付ける形で「人民民主主義体制」と自称する社会主義政権を樹立していき、資本主義国と対峙した。各国ではスターリン主義に倣った東ドイツのヴァルター・ウルブリヒト、ハンガリーのラーコシ・マーチャーシュ、チェコスロヴァキアのクレメント・ゴットワルト、ユーゴスラヴィアのヨシップ・ブロズ・チトーのような「小スターリン」が登場した。 ただし、チトーは1948年にスターリンと決別し、国家ではなく労働者が企業を管理する独自の経済と、ソ連と資本主義諸国との中立・非同盟外交政策を柱とした独自の社会主義国家を建設していった。これをスターリンはチトー主義と呼んで強く批判し、他の東ヨーロッパ諸国では共産党内の反主流派を「チトー主義者」として粛清する例が続出した。 1953年のスターリン死去後、1956年に彼の後継者ニキータ・フルシチョフがスターリン批判を行うとソ連国内でも一定の枠内で言論の自由化や粛清犠牲者の名誉回復が行われた。もっともフルシチョフの言論への弾圧は彼が主権を握ってから厳しさを増し、地方に対してはスターリン時代よりも激しいものになった。言論に関してある程度の自由が与えられるには、官僚腐敗が進んで権力危機の薄くなったブレジネフ時代まで待たねばならない(もっとも、ブレジネフも人々にはフルシチョフ弾圧の改革の必要性を認めているとする一方で、実際にはフルシチョフ時代を受け継ぐという形により、独立主義者、民族主義者には同じような弾圧をもって応えている)。 また、東ヨーロッパ諸国では1956年のハンガリー動乱や1968年のチェコスロヴァキアで起きたプラハの春のようなより大きな変革を求める運動が起きた。しかし、ソ連は制限主権論(ブレジネフ・ドクトリン)を主張して、これらの動きを武力で鎮圧した。 特にソ連が問題としたのは、これらの運動の要求が共産主義政党の指導性を否定し、自由選挙に基づく複数政党制への志向を見せたことであった。これは社会主義イデオロギーの問題であると同時に、ロシア防衛の最前線を絶対に後退させないという帝政時代からの地政学的問題でもあった。 また、特にチェコスロヴァキア軍事介入については1956年のスターリン批判以来徐々に表れていた西ヨーロッパ各国の共産党や日本共産党、および各国の知識人や社会主義・社会民主主義政党におけるソ連型社会主義への不信感を増幅させた。その結果、ユーロコミュニズムと呼ばれる、議会制民主主義による政権交代を前提とした平和革命による社会主義建設への路線をとらせた。ただし、これらの共産党の多くでも、その内部においては党指導部を頂点とした民主集中制を維持した。
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