ソ連国外のアルメニア人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 03:51 UTC 版)
「アルメニアの歴史」の記事における「ソ連国外のアルメニア人」の解説
詳細は「アルメニア人のディアスポラ」を参照 1920年代には早くもソビエト・アルメニアの政権からダシュナク党は排除されていたが、これにともない、ソ連国外のアルメニア人コミュニティも政治的な対立が生じた。各コミュニティには反ソ派のダシュナク党と親ソ派のアルメニア民主自由党(英語版)がそれぞれ民族学校を設置し、互いに反目し合った。特にアメリカでは、ソビエト・アルメニアのエチミアジンから派遣されたアルメニア使徒教会北米管区大主教のレオン・ツーリアン(英語版)が、1933年にダシュナク党と噂される者によって暗殺される事件が発生した。この事件によってダシュナク党支持者は従来の管区から事実上追放され、アメリカ各地のアルメニア教会でも管区・機関・聖職者・信徒までも政治的に分裂した。 同様の宗教対立はキリキア聖座(虐殺を逃れてレバノンのアンテリアス(英語版)へ移転していた)でも発生した。大主教カレキン1世(アルメニア語版)の死後、4年に渡り空位となっていた主教座の選挙が1956年に行われた際、エチミアジンの提示する候補者と、現地教会およびダシュナク党の提示する候補者の間では、激しい選挙戦が繰り広げられた。このとき、エチミアジンのカトリコスであったヴァズゲン1世(ロシア語版)は、公然とレバノンのソ連大使と協力し、共産党とレバノン政府までを選挙戦に介入させた。結果として現地の反ソ派と親ソ派の間では流血の衝突が巻き起こり、選挙にはダシュナク党側候補のザレ1世(英語版)が勝利した。そして、イランとギリシャの教区がエチミアジンから決別し、アメリカにもキリキア聖座の管轄する教区が新設されることとなった。 第二次大戦時にはナチス・ドイツが、占領地域からの徴用者からアルメニア人軍団(英語版)を編制し、赤軍のアルメニア人同胞が配属されていた北カフカース戦線(ロシア語版)やクリミア戦線(ドイツ語版)へ投入していた。そして、反共を掲げソビエト・アルメニアの奪回を図るダシュナク党は、大戦中にはナチス・ドイツへと接近した。その中にはナチス占領下ウクライナ(英語版)のアルメニア人コミュニティで活動したガレギン・ヌジュデ(英語版)のように、積極的に対独協力に関わった者もいた。 時代が下り、ベトナム戦争などで新たな民族問題が注目されるようになると、アルメニア人の若い世代にも民族意識を先鋭化させる者が現われた。1965年4月24日(赤い日曜日の50年後)にベイルート、ロンドン、パリの3都市で「トルコに対する武力報復宣言」が出されて以来、トルコに対する膨大な数のテロ事件が、アルメニア人テロ組織によって引き起こされた。テロ組織には主なものだけで、アルメニア解放秘密軍、新アルメニア抵抗組織(英語版)、アルメニア人大量殺戮報復部隊などがあり、1973年からの10年間だけでトルコの外交官が34人殺害された。しかし、テロへの国際的な批判の高まりを受け、1983年パリでのオルリー空港テロ(英語版)を最後に、アルメニア人によるテロ事件は沈静化している。
※この「ソ連国外のアルメニア人」の解説は、「アルメニアの歴史」の解説の一部です。
「ソ連国外のアルメニア人」を含む「アルメニアの歴史」の記事については、「アルメニアの歴史」の概要を参照ください。
- ソ連国外のアルメニア人のページへのリンク