ソ連参戦と終焉とは? わかりやすく解説

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ソ連参戦と終焉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 06:17 UTC 版)

満蒙開拓移民」の記事における「ソ連参戦と終焉」の解説

太平洋戦争末期戦局の悪化により、開拓団からの召集増えるようになり、特に1945年7月の「根こそぎ動員」では、約47000人が召集された。同年8月9日ソ連軍満州侵攻すると、関東軍開拓移民置き去りにして逃亡したソ連参戦時の満蒙開拓団在籍者は約27万人であり、そのうち根こそぎ動員」者47000人を除くと開拓団員の実数223000人、その大半老人女性子供であった男手欠いた開拓移民逃避行向かい、その過程難民生活で約8万人死亡した。主に収容所における伝染病感染を含む病死戦闘さらには移民用地強制的に取り上げられ生活の基盤を喪っていた地元民からの襲撃前途悲観して集団自決などが理由である。敗戦時に満州にいた日本人は約155万人といわれるが、その死者20万人の4割を開拓団員が占める。 自決殺害危機免れ辛うじて牡丹江ハルピン辿りついた人々は、麻袋の底をくりぬいて身に纏う避難民の姿が目立った。運よく貨車乗り継いで長春瀋陽にまで辿り着いた人々もいたが、収容所の床は剥ぎ取られ窓ガラス欠け落ち吹雪舞い込む中で飢え発疹チフス猛威死者続出した孤児婦人わずかな食料と金銭で中国人買われていった満州取り残され日本人犠牲者日ソ戦での死亡者含めて245000人にのぼり、このうち上述のように8万人開拓団員が占める。満州での民間人犠牲者の数は、東京大空襲広島への原爆投下沖縄戦凌ぐ内地生還した開拓移民も、引き揚げ後生活苦にあえぎ、多く国内開拓地入植したが、南アメリカへ海外移民になった者もいた。 前記通り中国人買われ孤児婦人が約1万人いたため、中国残留日本人問題となった。。この帰還は、1972年昭和47年)の日中国交正常化から21世紀まで続く現代的な問題である。 開拓団員と義勇隊員併せて37000人の移民送り出した長野県内満蒙開拓平和記念館同県下伊那郡阿智村)がある。同記念館は、2014年に、開拓団の生活やソ連軍侵攻後の逃避行についての聞き取り調査する活動を、中国人目撃者から聞き取る活動行った黒竜江省方正県大羅最年長男性によると、ソ連国境近くにいた開拓団民が同村まで徒歩逃れてきたが「開拓団民はみなぼろを着て女性丸刈りだった。生活は苦しく中国人嫁いで子供産み何年もしてやっと帰国できた」などの体験談などを得ている。

※この「ソ連参戦と終焉」の解説は、「満蒙開拓移民」の解説の一部です。
「ソ連参戦と終焉」を含む「満蒙開拓移民」の記事については、「満蒙開拓移民」の概要を参照ください。

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