ソ連収容所からの日本人戦犯引き渡し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 09:05 UTC 版)
「撫順戦犯管理所」の記事における「ソ連収容所からの日本人戦犯引き渡し」の解説
1945年8月、日本の敗戦後、国民党が遼寧省第四監獄とする。一方、日本人捕虜の一部はソ連の極東シベリア(ハバロフスク)地区捕虜収容所に監禁された。シベリアで日本人捕虜は、厳寒のなか強制労働、飢餓、取り調べ、旧日本軍の民主化運動で批判されるなど苦しんだ。 1948年11月、東北人民政府が遼寧省第三監獄とする。 1949年、国共内戦で中華民国国民党軍に勝利した中国共産党が建国した中華人民共和国は12月16日から翌年2月までハバロフスク地区に監禁されている日本人戦犯の引き渡し交渉をした。同時に、1949年12月16日から12月30日にはハバロフスク裁判が開廷し、関東軍司令官山田乙三や、731部隊(関東軍防疫給水部)、100部隊(関東軍軍馬防疫廠)が裁かれ、判決では強制労働が課された。しかし、アメリカのキーナン東京裁判主席検察官やシーボルド対日理事会代表は、この判決をソ連による捏造であると非難した。ただし、常石敬一は日本軍による細菌戦は事実とした。 1950年2月の中ソ友好同盟相互援助条約締結の際、中国共産党の評価を高めるためにスターリンからシベリアからの日本人捕虜移管が提案されたともいわれる。同2月、満州国時代撫順監獄(遼東省第三監獄)であったところを東北戦犯管理所に改造した。7月、ソ連から969人の日本人が引き渡され、すし詰めの貨車で移送された。これに対して中国側は白いシーツの客車で迎え、食事を準備し、 医師による検診も行われた。さらに太原戦犯管理所から9人、国内から受理した4人の合計982人の日本人戦犯が撫順戦犯管理所に監禁された。1950年7月、撫順戦犯管理所へ改称。日本、満州、国民党の戦犯合計1300人が監禁された。
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