ソ連占領地域・東ドイツ時代
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「ヨハネス・R・ベッヒャー」の記事における「ソ連占領地域・東ドイツ時代」の解説
ソ連占領地域で新しく文化を始めることがベッヒャーの仕事であった。そのことは前年度から決まっていて、スターリンが彼をベルリンに派遣した。ベッヒャーが帰国してまもなく、ドイツの民主的改新のための文化連盟が設立され、彼はその議長になった。文化連盟は、共産主義的な大衆組織ではなく、多くの知識人や左翼的ブルジョワ階級などが集まる比較的リベラルな組織であると評価されていた。明確なのは、ベッヒャーが共産党の中東委員会メンバーであり、SEDの幹部である限り、文化連盟は共産党の目的とは矛盾しなかったということである。 文化連盟の議長として、ベッヒャーが特に努力したのは、亡命している芸術家たちにドイツへの帰国を説得することであった。例えば、マン兄弟(トーマス、ハインリヒ、クラウス)やブレヒト、ヘッセ、フォイヒトヴァンガー、アイスラーなどの国外亡命者だけでなく、エーリッヒ・ケストナーやヴィルヘルム・フルトヴェングラーなど「国内」に居続けた人をもその対象であった。ベッヒャーは文化連盟を東西両ドイツを含む全国組織と位置づけようとしたが、まもなくドイツは東西冷戦の最前線となった。西側の視点からすればベッヒャーはソ連の操り人形であり、国内からは政治的な逸脱者と見られた。そのため在独ソ連軍政府(SMAD)は、ベッヒャーを党の路線に忠実な同志に交代させるよう催促した。しだいに彼は西側メディアとSED指導部の矢面に立つようになり、最終的には非常ブレーキを引かなければならなかった。彼は党員資格証よりも自分の意見を犠牲にした。彼にとって党は最後まで祝福と呪いの両方であり続けた。文化連盟を党のプロパガンダ機関に格下げすることへの抵抗は消えていった。第二次世界大戦後にベッヒャーは、国際ペンクラブに東西両ドイツの作家を登録しようとした。文化連盟と同様に、ここでも彼の希望はかなわなかった。1950年に東西両ドイツの国際ペンクラブ内で様々な対立が起こった。3人の議長のうちの一人として、彼は集中砲火にさらされた。実際には非政治的だった連盟の事務局をたびたびスターリニズムの政治劇場として利用し、東ドイツの司法局を擁護していたからである。彼への非常に多くの圧力があったにも関わらず、彼はペンクラブの議長を辞任しようとはせず、双方でネガティブ・キャンペーンを張ったために、結局はドイツ・ペンクラブは分裂した。 ベッヒャーにとって詩は「政治の補助器具」になると、ある若い歴史がデーブリーンの雑誌『黄金の門(Das Goldene Tor)』に書いており、非難は完全に手に負えなくなっていた。この時代の作品には、例えば、政治局の注文の依頼である東ドイツ国歌や1950年のカンタータのための台本などがある。作品の焦点が、「平和のための闘争、ドイツの民主的統一のための闘争、反ファシズム的・民主的秩序の安定化のための闘争」に向けられていたので、その忠誠が認められ、1950年7月の第3回SED党大会(ドイツ語版)で、ベッヒャーは中央委員会に選出される。その後の時代は、ベッヒャーにとっては、外見上は政治で出世していたが、詳しく見ると、闘病の時代であり、政治的にも文学的にも衰退の時代であった。「ベッヒャーは最も偉大な詩人であると、みんなは言う。それにはいつも賛成している。彼は確かに最も偉大であった。つまり、生きているうちに最も偉大に死んだ詩人であった。彼の詩を聴く人も読む人もいない。だが、彼は生きたし、書いたのだ」。手厳しいが決してでっち上げてはいない意見である。 1954年1月に、ベッヒャーは初の東ドイツ文化大臣になり、補佐はアレクサンダー・アブッシュとフリッツ・アペルト(ドイツ語版)であった。大臣任命には、特に二つの外的な影響が関係している。スターリンの死と東ベルリン暴動である。政府の側からは、文化大臣のポストは重要なものであり、依然としてドイツ統一の支持者であったベッヒャーは、ニキータ・フルシチョフの就任によって始まった小さな政治的緊張緩和の時代に、東西の対話を企画し、再びドイツの文化的統一という考えは注目を浴びた。しかしこの努力の全ては党のせいで、すぐに水泡に帰した。 1956年のフルシチョフの党大会での演説とハンガリー動乱という2つの事件は、ベッヒャーにとって命取りとなった。フルシチョフの演説で、東ドイツでは反スターリンの反対派が結成されたが、ベッヒャーはそこに所属していなかったものの、その計画を知らされており、反対派には共感もしていた。反対派はハンガリーでの介入も計画しており、ベッヒャーは同僚と一緒に、長年の友人であるルカーチをハンガリーから救い出そうとしたが、ベッヒャーのナイーブな性格のせいで失敗した。SED指導部は、非常に不安定であり、ヴァルター・ウルブリヒトは多くの党の同志を失脚させ、ベッヒャーは名目上は肩書きと役職を維持していたが、権力を奪われ、アレクサンダー・アブッシュと大臣の職を交代することになった。『詩的原理(Das poetische Prinzip)』のなかで、社会主義は「私の人生の根本的な誤り」だったと振り返っている。 1958年10月11日に悪化したがんの手術を受けたが死去。党、特にウルブリヒトは、ベッヒャーを「新時代の最も偉大なドイツ詩人」として賞賛し、弔いの言葉を述べた。ベッヒャーは「葬儀で大衆を退屈させ」ないで欲しいし、「公的な表彰」も止めてほしいという遺言を出していたが、東ドイツの作家で初めての国葬が行われ、その意志は完全に無視された。 1955年に設立されたライプツィヒの文学研究所は、1959年にヨハネス・R・ベッヒャー文学研究所と改称した。東ドイツのたくさんの学校や通りでも、彼の名前が入っている。
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