ソ連対日参戦と満鉄接収
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「中国長春鉄路」の記事における「ソ連対日参戦と満鉄接収」の解説
ソ連対日参戦・山崎元幹の項目も参照のこと 1941年に第二次世界大戦が始まると、満州国も日本とともに枢軸国として参戦した。しかし枢軸国を巡る戦況は次第に悪化し、1943年に入る頃から日本は南洋戦線で大敗、ヨーロッパ側でも東部戦線においてソビエト連邦が猛攻を続け、枢軸国側を圧倒していた。1945年春にはイタリア社会共和国とドイツが相次いで降伏、戦争を継続しているのは実質的に日本だけとなった。 一方、ソ連は1945年2月のヤルタ会談でアメリカ合衆国・イギリスの要請を受ける形で密約を締結(ヤルタ協定)。ドイツの降伏後90日以内に対日参戦することを決定するとともに、満州の港湾・鉄道におけるソ連の権益確保を行った。この時既に鉄道については、ソ連と中国の合弁会社が運営する戦後方針が決定されている。 その結果、1945年8月9日、日ソ中立条約を破棄したソ連軍によるソ連対日参戦が行われ、満州国内に大量のソ連軍が侵攻した。 ソ連の参戦は関東軍に対し戦力として大きな期待を寄せ、中立条約もあったことからソ連の侵攻を想定していなかった満州国内に、大きな混乱をもたらした。実際には関東軍主力部隊は南方戦線に転用され戦力は空洞化、持久戦を最初から想定するほどの兵員不足状態であった。このため、関東軍は民間人保護を実質放棄する形で南下し敗北、満州国政府も皇帝・愛新覚羅溥儀とともに「遷都」を宣言し南方に疎開してしまった。 だが8月15日に日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏したことが17日に伝わると、満州国政府は翌18日に皇帝退位を宣言し消滅。関東軍もほぼ瓦解した状態で停戦、終戦を迎えた。 かくしてソ連軍の満州への進駐が開始された。その中で多くの施設が接収されたが、南満州鉄道もその例外ではなかった。8月20日、ソ連軍司令官・コバリョフ大将と新京駐屯軍司令官カルロフ少将が、当時事実上の本社であった南満州鉄道新京本部へ到着、接収を行った。 17日に関東軍司令官・山田乙三から戦後処理を任されていた総裁・山崎元幹は、ただちに社内へソ連軍への協力と社員・家族の保護について自分がソ連側と協議する旨の布告を発し、夕方には社旗を収納してソ連の指揮下に入ることを行動で示した。その上で、ソ連軍司令官のコバリョフ大将と会談、ソ連に全面協力する代わり、社員と家族の生命財産保護、給与の確保の約定を取りつけたのである。
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