ソ連対日参戦と満鉄接収とは? わかりやすく解説

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ソ連対日参戦と満鉄接収

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/09 09:09 UTC 版)

中国長春鉄路」の記事における「ソ連対日参戦と満鉄接収」の解説

ソ連対日参戦山崎元幹の項目も参照のこと 1941年第二次世界大戦が始まると、満州国日本とともに枢軸国として参戦した。しかし枢軸国を巡る戦況次第悪化し1943年に入る頃から日本南洋戦線大敗ヨーロッパ側でも東部戦線においてソビエト連邦猛攻続け枢軸国側圧倒していた。1945年春にイタリア社会共和国ドイツ相次いで降伏戦争継続しているのは実質的に日本だけとなった一方ソ連1945年2月ヤルタ会談アメリカ合衆国・イギリス要請を受ける形で密約締結ヤルタ協定)。ドイツの降伏90以内対日参戦することを決定するとともに満州港湾・鉄道におけるソ連権益確保行った。この時既に鉄道については、ソ連中国合弁会社運営する戦後方針決定されている。 その結果1945年8月9日日ソ中立条約破棄したソ連軍によるソ連対日参戦が行われ、満州国内に大量ソ連軍侵攻したソ連の参戦関東軍対し戦力として大きな期待寄せ中立条約もあったことからソ連侵攻想定していなかった満州国内に、大きな混乱もたらした実際に関東軍主力部隊南方戦線転用され戦力空洞化持久戦最初から想定するほどの兵員不足状態であったこのため関東軍民間人保護実質放棄する形で南下し敗北満州国政府皇帝愛新覚羅溥儀とともに遷都」を宣言し南方疎開してしまった。 だが8月15日日本ポツダム宣言受諾して無条件降伏したことが17日に伝わると、満州国政府は翌18日皇帝退位宣言し消滅関東軍もほぼ瓦解した状態で停戦終戦迎えたかくしてソ連軍満州へ進駐開始された。その中で多く施設接収されたが、南満州鉄道もその例外ではなかった。8月20日ソ連軍司令官・コバリョフ大将新京駐屯軍司令官カルロフ少将が、当時事実上本社であった南満州鉄道新京本部到着接収行った17日関東軍司令官山田乙三から戦後処理を任されていた総裁山崎元幹は、ただちに社内ソ連軍への協力社員家族保護について自分ソ連側協議する旨の布告発し夕方には社旗収納してソ連指揮下に入ることを行動示したその上でソ連軍司令官のコバリョフ大将会談ソ連全面協力する代わり社員家族生命財産保護給与確保約定取りつけのである

※この「ソ連対日参戦と満鉄接収」の解説は、「中国長春鉄路」の解説の一部です。
「ソ連対日参戦と満鉄接収」を含む「中国長春鉄路」の記事については、「中国長春鉄路」の概要を参照ください。

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