ソ連崩壊とその後
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この動きを容認したゴルバチョフはソ連に複数政党制を導入して共産党と連邦政府の権力を分離し、社会主義イデオロギー色を抜いた上で、民族共和国の共同体としてソビエト連邦を再生することを考えた。1990年にソ連憲法が改正され、共産党の一党支配が否定されたことで、従来のソ連型社会主義は実質的に終焉した。 ゴルバチョフはソ連大統領と共産党書記長を兼任したが、共産党は急速に求心力を失い、これに危機感を抱いた軍やKGBの保守派首脳部を国営軍需産業企業の経営者が支持して発生した1991年のソ連8月クーデターが失敗すると、ゴルバチョフは共産党の解散を宣言した。ソビエト連邦自体も構成共和国の自立が進み、改革派として共産党から脱退した経験を持ち、1990年6月にはロシア共和国の主権国家宣言を行っていたボリス・エリツィン同国大統領が1991年12月8日にウクライナとベラルーシを加えた3国でベロヴェーシ合意を結び、連邦の存在意義がほぼ喪失したのを受けて同年12月25日にゴルバチョフが大統領の辞任(職務停止)を宣言し、ソビエト連邦は解体された。 ソ連の後継国家となったロシアではエリツィン政権で首相となったエゴール・ガイダルが進めた軍需産業の民生転換を含む急速な民営化プログラムが急速なインフレを招き、エリツィンと結んで旧国営企業を格安で入手した一部の新興財閥(オリガルヒ)の極端な富裕化と一般大衆のさらなる窮乏が並行し、1998年にはロシア財政危機が発生した。旧KGB出身で2000年に大統領となったウラジーミル・プーチンは新興財閥への締め付けを強化し、外資の導入も利用した民生部門の成長による経済発展と国民生活の向上を達成したが、テレビメディアの政府独占に象徴される言論統制の再強化、南オセチア紛争による大国主義の復活などで示されるソ連時代への回帰が指摘され、ゴルバチョフなどからは自由化の後退などという批判も受けている。また、ペレストロイカ期では改革派寄りでゴルバチョフを支えたカザフスタンのヌルスルタン・ナザルバエフ大統領は連邦崩壊後も長期政権を維持して縁故者による支配体制を固め、ベラルーシではアレクサンドル・ルカシェンコ大統領が反対派を抑圧して「欧州最後の独裁者」と批判を浴びるなど、多くの旧ソ連諸国では経済面での資本主義化・外資導入を進めながらも「ソ連型社会主義」の影響が強く残っている。 なお、日本共産党はゴルバチョフ時代にソ連共産党との関係を正常化していたが、ソビエト連邦の崩壊に際して宮本顕治は「歴史的巨悪の党だったソ連共産党の解体を、諸手を上げて歓迎する」と発言した。一方、日本社会党やその左派をリードした社会主義協会の親ソ派にとってはソ連崩壊は大きな打撃となり、社会党の後継政党である社会民主党や旧社会党左派の一部が結成した新社会党にも影響が残っている。これらの左派系政党は自由民主党を中心とする保守勢力から「体制選択論」などとしてソ連崩壊が攻撃材料に利用され、1990年代後半からの党勢衰退へとつながった。
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