エリツィン政権
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ボリス・エリツィンは、1990年にロシア共和国大統領になり、ソビエト連邦の崩壊後も引き続いてロシア連邦の大統領を務めた。しかし、エリツィン時代は深刻な物不足と拙速な市場経済化による貧富の差の劇的な拡大、政治の腐敗など、多難な時代であった。ストリートチルドレンの激増、ロシアン・マフィアの跋扈、薬物汚染など、それは、かつて世界を二分し、アメリカと互角に渡り合えると思われていた超大国の面影も感じさせない惨憺たるものであった。 1991年にソビエト連邦が崩壊し、ロシア連邦が成立すると、エリツィンの方針に伴い社会主義から資本主義へと国家体制の移行が進められた。その過程で莫大な富を手にしたオリガルヒと呼ばれる新興財閥が多数誕生した。しかし、資本主義化はハイパーインフレーションを引き起こし、国民は貧困と物不足にあえいだ。1993年の下院選挙では民族主義とロシア帝国復活を掲げる極右政党「ロシア自由民主党」が第一党に躍進した。しかし、自由民主党はすぐに凋落し、共産主義の復活を掲げる「ロシア連邦共産党」に第一党の地位を奪われた。1996年の大統領選挙でロシア連邦共産党のゲンナジー・ジュガーノフ候補はエリツィンに肉薄するものの一歩及ばず、エリツィンの再選を許した。エリツィン再選にはオリガルヒ達の力によるものが大きかった。そして、エリツィン政権二期目では、オリガルヒの発言力が増し、政治腐敗が蔓延していった。1998年にはロシア財政危機が発生。国内は混乱した。 1999年末日、エリツィンは電撃的に大統領辞任を表明。大統領代行にウラジーミル・プーチンが就任した。ここに、ロシア連邦民にとっては多難であったエリツィン時代は幕を閉じた。
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エリツィン政権
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「ルスラン・ハズブラートフ」の記事における「エリツィン政権」の解説
ソ連崩壊後、エリツィン政権の下で、ハズブラートフの政治的位置は、次第に反エリツィンに傾斜していった。経済改革をめぐり、エリツィン側近のエゴール・ガイダルやアナトリー・チュバイスら急進改革派と一線を画すようになり、彼ら若手改革派を「ピンクのパンツを履いた坊やたち」と揶揄していた。元来、ハズブラートフは、政治家としては政治的力量は未熟であり、性格的にも、敵対者に対決的に過ぎた。しかも、ハズブラートフは政治的野心を肥大化させ、最高会議内で旧共産党保守派などと提携して、エリツィン政権の急進改革路線に反対する発言者の役を演じるようになっていった。
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