書記長以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 23:02 UTC 版)
「ティホン・フレンニコフ」の記事における「書記長以後」の解説
1948年にアンドレイ・ジダーノフによってソ連作曲家同盟の書記長に任命され、1948年度ソ連作曲家同盟総会の席上でプロコフィエフとショスタコーヴィチに名指しで「形式主義者」の烙印を押し、その後も在任中に両大家を激しく譴責したことにより、こんにちフレンニコフに対する評価はすこぶる悪い。また、いかさまの選挙によって、ソ連崩壊までその書記長職に居座った。その一方で、その地位を有意に用いて、国内の作曲家を擁護し、援助したとの証言もあり、プロコフィエフとショスタコーヴィチが1950年にスターリン賞を授与されたのも、フレンニコフの弁護あればこそであったというものもいる。しかし、フレンニコフの手をもってしてもロシア・アヴァンギャルドを救うことは絶望的で、彼らの名は音楽事典から抹消された。『ショスタコーヴィチの証言』には、フレンニコフに関する批判的な記述がされている。
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